週報より~私たちのためのとりなし~
戦後の70年を迎えるに当たり多くのとりなしの働きが日本各地や世界において進んでいます。その中にはいやしや和解の働きに加えてその地を主によって祝福していくという働きもあります。なぜ自分自身が直接関わっていない事に関して謝罪したり和解したり祈ったりするのかという意見もあるかも知れません。しかし他人のことを自分のことのように祈っていくことをイエス様ご自身が聖書の中でも何度もされています。ご自身を刺し貫いた兵隊にすら「この人はなにをしているのか分からないのです」と神様の前にとりなしておられます。とりなしとはイエス様が私たちに対して祈って下さる姿勢そのものであり、救いに至る大きな助けであり、私たちの信仰の土台です。信仰による救い、永遠のいのちは決して自分で勝ち取ったものではなく、ただ神様の憐れみとキリストの尊い犠牲を伴ったとりなしによって与えられる恵みに他なりません。自分で勝ち取るものであれば優れた人しか得ることが出来ません。しかし権力によるものでもなく、能力によるものでもなく、ただ神様の愛によって与えられる救いだからこそ、すべての人に受け取ることが出来、また与えて下さる方が絶対的な御方であるからこそその救いは揺るぎません。とりなして下さる御方が誠実であり私たちがどのような状況にあったとしても変わらず愛してとりなして下さるからこそ、ただイエス・キリストによって私たちは神様の御前に出ていくことが出来ます。そして自分が赦されたらそれだけで終わっていいのでしょうか?多く赦されたのなら私たちもより多く赦しや和解のために謙るべきです。悔い改め砕かれた心を持って私たちもとりなし祈るものとなりましょう。