補い合える関係~週報より~
補うということばはなにかの不足があるときにそこを埋めていくという地道な働きです。
そこには気がつくという事や気配りが必要です。
時としてそういった気配りや気づきはそういう繊細さに長けている一部の人達だけのものとなりがちです。
いつも気をつかっている方を見たことはありませんか?
それが重荷となっていないうちはいいのです。
しかし「なぜ自分ばかり」と思い出すと自分と同じ基準に達していない多くの人を裁くようになったり見下したりするようになることもあるでしょう。
それは健康な状態とは言えません。
そういった心理状態にならないためには喜びを持って犠牲を払いたいと思えるだけの価値をその対象に見いだせるかどうかが大きい理由になるでしょう。
この「補う」ということは「補い合う」という成熟を通してバランスのとれたものとなります。
聖書はこの相互関係のバランスを様々な角度から教えています。
受けるよりも与えるものになること、
だますよりもだまされるほうが良いことどれをとっても相手が存在しないと出来ることではありません。
そして今日のテーマである補うということも対象がなければ補うことは出来ません。
そしてこの補うということを通して自分ひとりでは決して完全ではないということを知り、
また神様により具体的に助けを求めることやお互いに遜り合うことも可能になっていきます。
自分に合わないものをすべて切り捨ててしまったらそれはきっとアンバランスな状態になるでしょう。
神様は家庭であれ教会であれ共同体を通して力強く働いて下さる御方です。
今自分に出来ること、
補えることを
主にあって見つけて喜びを持って補うことが出来る。
また補いたいと思える家庭、また教会として成熟していきましょう。