宣教に伴うちから~マルコ16:15-20

イエス・キリストの復活を通して弟子達は改めて整えられ世界宣教の使命を受け取りました。そしてペンテコステ以降初代教会が建てあげられて迫害の中で世界へと弟子たちは遣わされていくようになりました。その中でイエス様が約束されたような悪霊追い出し、異言、奇蹟、いやしが伴っていきました。現代においてもこういった不思議な業は伴っていくケースがあります。私たちが主の御心に従い、忍耐を持って歩む時に主は道を開いて下さいます。現代の日本においてこのようないやしや奇蹟を信じるということはある意味難しいかも知れません。しかし、聖書に私たちが立っていく時に信じるということは奇蹟を受け入れる信仰の備え、そして奇蹟を求める備えをしていくことがとても大切です。なぜなら不信仰のうえには主に対する期待も願いも情熱もないからです。すべてが癒されるわけではないかも知れません。しかし癒しを求めて祈ることを聖書は記しています。癒されないとしてもそれは神様の栄光が現わされるためであるとイエス様ご自身が教えておられたり、またパウロが自分のいやしを三度求めたけどもそのとげは取り除かれなかったり、ある種のものに対して断食によらなければならないと記されていたり、いやしひとつとっても実に様々な背景と解釈があります。その中で私たちは主に信頼して祈り、主に委ね、主に従っていく者でありたいと心から願います。信仰の火を消すことがないように、主の愛のうちにとどまり、主のことばにとどまり、従う者となりましょう。

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