ちからあるとりなし~ローマ15:30-33

祈りとは神様との対話です。会話の流れの中にはいろんな要素が入ってくるので○○の祈りという風に会話のテーマを区切るよりも全体の中にある要素のひとつ。という捉え方のほうが正しいとは思います。そうした前提を踏まえたうえで祈りの方向性、考え方ということを見る時に感謝の祈り、お願いしていく祈り、神様の御心を求めていく祈りなどがあげられると思います。そして聖書の中に見ることが出来る祈りとして大切なのはとりなしの祈りです。ローマ15章の終盤でパウロは自分のためにちからの限り祈ってほしいと要請しています。これはとりなしの祈りを意味しています。またさらに深いところを見るのであればモーセがイスラエルの民を導いていた時に彼らの罪を覆うために自分の名前がいのちの書から消えてもいいからという勢いで神様の前にとりなしの祈りをしています。これがとりなしの本質的要素です。他人の罪を自分の罪として悔い改める祈りです。イエス・キリストの十字架の贖いは完全なとりなしであり、十字架上で自らを刺した兵隊に対してかけられた言葉もとりなしでした。このとりなしの祈りには大きな力があることをパウロも知っていました。互いにカバーしあう時にその共同体はより強固なものとなっていくからです。互いに指さし合う共同体よりも覆いあう共同体のほうが霊的に見る時には優れています。その中で甘える人が出てしまったらという懸念も出るでしょう。それは霊的に幼い状態であるのかも知れません。家庭でも小さい子どもは甘えるものです。そこから成長し、一人前になっていくように私たちも神様の前に成熟していくことが出来るのです。互いに補い合い、とりなす者として成熟していきましょう。

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