祝福に至る道~ガラテヤ3:11-14
イエス・キリストをどういう御方として認識するかはひとりひとりがどのようにイエス様と向きあっているか、関係を持っているかで変わってきます。救い主としてある人々から認識されている歴史上の人という捉え方もあるでしょうし、自分自身の救い主としての受け止め方もあります。またその受け止め方をさらに詳しく見ていくならば神としての認識が強いのか友としての認識か、兄弟としてなのか、師としての認識が強いのか、特にどのようなことを自分にしてくださったかと考えるならば救い、きよめ、教え、ゆるしなど多くのものがあると思います。
人生の時々において、特に信仰生活の中でその関わり方や認識が特に強調される内容があります。聖書の中で律法を行うことで律法によって生きる生き方から義人は信仰によって生きるとあるように罪の縄目から解放してくださった方としての記載があります。この箇所はとても深淵です。律法は決して軽いものでも不要なものでもありませんがそのことによって私たちが罪人であることを知り、そして信仰によって歩む時にこそ約束の祝福を受けることが出来ることを初代教会の弟子達は様々な手紙で教えています。自分のことはなかなか見えず、他人のことはよく見えてしまう私たちの性質は律法も自分よりも他人に適応して自分が裁く人の位置にいつのまにか立ってしまいます。そこに愛よりも高ぶりによる時が多いことを知った時に自分の罪深さを知ることになります。しかしそのようなジレンマから信仰から来る祝福は少しづつ気づきを与え、変化をもたらしてくれるものです。祝福に至る道を選びとっていきましょう。