とっておきは最後にくる~週報より~
自分の希望やほしい物のイメージがはっきりしている人はどちらかというと少数派でどちらかというと今あるものに対してこれは違う。これも違う。ここが~だったらというダメだしをしつつ自分の本当の希望に近づいていく人が多いのではないでしょうか?
周りがいいと言うからとりあえずやって見ていいような気になるところから始まり、慣れてくるとここをこうするともっと良くなるというようにです。
つまり向上心を持ってなにかと関わる時にそこには洗練されたり、またより効率的になったり、より素晴らしくなる変化が生じます。
イエス様は旧約の律法を2つに要約するだけではなく、実際に救いの道を明確に開いて下さいました。
旧約の中で罪を犯さずに歩んだと胸を張って言える人物はいないと言っても過言ではありません。
おそらく人格的に本当に素晴らしい人物は多くいました。
それでも神様のきよさの基準、律法の基準には足りなかったのです。
そこで自分で自分の救いや義を完成出来ないことを痛感し、弱さを知り、ユダヤの民の飢え乾きがピークになっていた頃についに多くの預言者によって預言されていた救い主イエス・キリストの誕生~十字架復活と救いの道が開かれました。
そのすばらしさ、価値を知るのはより自分を知り、砕かれた人です。
自分の努力で得られないからこそ価値があります。
救いに努力は必要ありません。ただ信じて受け取ればいいのです。
タダというと街頭で配布されているチラシやティッシュのように感じるかも知れません。
しかし物の価値は価格ではなくそのものがどんな物かによります。
花粉症で困っていたらティッシュを喜んで受け取るでしょう。
キリストの救い、永遠の命は自分の存在意義や死んでどうなるか、
自分の内面にある罪、またそこからの救いや解放を求める心を持つ時に価値が分かるのです。
状況によらず信じることが出来ることは恵みです。
今キリストにある救いと命の価値を知り、その中に生きましょう!