週報より~熟練したものとして~
熟練した者という表現が聖書の中にもよく出てきます。この熟練とは「 物事に慣れて、手際よくじょうずにできること。また、そのさま」という意味があります。聖書が語る熟練した者とはなにに熟練し、慣れ、手際よく上手に出来るようになることを奨めているかというと真理のことばを真っ直ぐに解き明かすことに関してです。聖書のみことばは時に難解な箇所もあったり、言語的解釈、歴史的解釈、状況的解釈、そして霊的解釈など様々な角度からバランスよく見たり、前後関係を検証したり、さらに聖書全巻からのバランスを見た上で逸脱しないように解釈し解き明かし、伝えていく必要があります。特に日本語の聖書の訳し方や訳によっての微妙なことばの誤差などを一字一句掘り下げ過ぎるとずれた認識をしてしまうことも少なくありません。聖書が揺るがない土台として語っている人の罪、神の愛、十字架、復活、信仰による救いなど根本的な柱を明確にしてそれに肉付けしていくように解き明かすことが大切です。またそのために恥じることのない働き人として自分を神に捧げるように励みなさいとあります。恥じることのないというのはどういう意味でしょうか?全部が理解し説明出来ないといけないということでしょうか?それはそういう意味ではなくこじつけた勝手な解釈をしないということです。ずれたことは認め改めたら確かによいことですが時としてそれを修正したくないと頑なになってしまう弱さを私たちは持っているからです。しかしそういうズレを直してこその「熟練」です。聖書を私たちは信じていますがすべてを説明出来るわけではありません。好意を持っている人のことは確かにすべてが知りたいと思うでしょう。しかしその人のすべてを私たちは知ることは出来ません。しかしそこに信頼関係や時として愛が存在することを私たちは知っています。主の前にさらに熟練した働き人となっていきましょう。