慰めをともに受ける

イエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架についてくださり、復活してくださいました。ここに見る神様の慰めを考えたいと思います。本来私たちは自分の罪、また神様を知らない自己中心的な生き方によって裁かれなければならない存在です。しかしイエス様を救い主として信じることで義とされます。そしてイエス様は私たちの弱さを知るお方です。十字架で私たちが体験したこともない痛み、苦しみを通られたお方が私たちを理解し慰めを与えてくださるというのです。それはイエス様とともに歩む時に苦難の時にも守られるという道をも示しています。つまり慰めは苦難とセットになっているということです。またより多くの苦難を経験しているからこそ多くの慰めを与えることが出来る、また相手の必要に気がつくことが出来るようになります。苦労知らずは相手の気持ちが分からないと社会でも聞くように苦難、困難や試練は出来れば通りたくないものですがそこから私たちが得ることが出来る慰め、また助けが必要なところが見えてくるその心はとても大切なものであり、イエス様の中にあるものです。またひとりで苦しんでいるのではなくイエス様もともにその道を通ってくださっていることを知りましょう。また祈り支え、ともに歩んでいる人たちもいることを知りましょう。この共にということばは複数でないと成り立ちません。慰めも複数の関係がないと成り立ちません。苦難も同じように共に分かち合い、担い合う時に正しい解決が見えてきます。悪魔は私たちをシングルファイトに持ち込もうとして来ます。それは個別だと私たちが思い込みや悲観的な思いに弱くなりやすい者であると知っているからです。聖霊が助け手として送られているということはどんなに素晴らことでしょうか。共に慰めを受ける者となりましょう。