ただ主ご自身を求める~ヨハネ2:1-10~

神様を信じるきっかけはいろいろあると思います。イエス様の宣教や初代教会の宣教において癒しを奇蹟、悪霊の追い出しという要素は大きな原動力であり、現代の宣教においても鍵となり得る要素だと思います。しかし、福音書を注意深く読んでいくと弟子達を選ばれた時の時間の流れとイエス様の働きを見る時に多少の誤差はあるものの、弟子達と一緒に参加されたカナの婚礼での奇蹟がはじめの奇蹟としてヨハネの福音書に記されています。弟子達を招かれたあとで奇蹟の御業が始まったと理解していくなら、弟子達はイエス様のなにを持って従っていったのでしょうか。イエス様の復活のあとペテロとのやりとりを見ると、愛することに対してのやりとりのみがそこにあります。そこには主従関係や損得勘定は存在していません。神様を信じること、イエス様を救い主として受け入れ信じること、聖霊様を歓迎すること、それは癒しや奇蹟、悪霊追い出し以上にただ愛によって結ばれていく信頼関係からくる信仰が土台となります。イエス様が十字架の道に進まれた時にそれまで従っていた群衆はどこにいったのでしょうか。心からそのことで葛藤し、苦しみ、また行動し、その後も信仰の道に留まり続けたのは一握りの弟子達でした。イエス様に従っていたら自分の益になると思っていた人々は散らされ、信仰によって深い繋がりを持っていた人たちだけが残されたのです。信仰の皮をたまねぎの皮をむくように取り除いていった時にすべて無くなるか、そのなかに取り除かれないしっかりとしたものがあるかは神様がご存じであると共に試練や困難の中で見えてくるものです。なにがあっても揺るがないイエス様に深く根ざした信仰を持つ者と日々整えられていきましょう。

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