週報より

誰でも違反をすれば罰則があるのが世の常です。ルールは破るためではなく守るためにあり、縛るためにあるのではなく快適にするために本来はあるべきものです。重箱の隅をつついてどうこういうような考えを他人におしつけている状態だと心は高ぶってしまい見下した姿勢になるでしょうし、出来ていない分を自分がカバーしてあげようと思うと人にやさしくなれるものです。神様は裁き合いをすることでお互いを律することよりも憐れみを持って互いに支えあうようにと聖書で教えておられます。今日の聖書箇所に憐れみを示したことのないものに対する裁きは憐れみのない裁きですとあります。これを良く読み返してみると憐れみを示したことのあるものに対する裁きは憐れみのある裁きですと読み取ることが出来るでしょう。私達を裁かれる方は私達の表面的な行いでだけ裁かれる方でしょうか?私達の心を全て見ておられ、その思いのすべてを裁かれる方です。その裁きの前に誰も堂々と胸を張って望むことは出来ないと思います。しかしイエス様を信じることによって、また私達がどのような歩みをしてきたかによって量られるという事が理解出来ます。私達は他人と比べて多少の差はあるものの高ぶりやすく本質的に自己中心なものです。しかしイエス様によって日々創り変えられ憐れみ豊かな言葉、そして行動、表面的なものだけでなく純粋に心からそのように変わっていきたいと願います。日々謙って変えられていきましょう!

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