週報より~主から来る召し

信仰による救いとはキリスト教の根本です。行いや修行による救いであればなんらかの事情で行いをすることが出来ない方は救われないということになってしまいますが、神様は健康な方も障害などを持っている方も、分け隔てなく愛し、そして救いたいと願っておられる方です。そして救いからさらに進んで神様のためにもっとなにかしたい。神様の愛に応えたいという思いから献身したいと願う方もおられるでしょう。ややこしいことばでいうと召命(しょうめい)ということばでもこの献身はあらわせます。献身というと自分から進んでという能動的意味合いが強いですが召命は神様によって召されるという受動的な意味合いが強くなります。一言でこの「召し」ということを掘り下げようとする時にこの両面をしっかりとバランスよく認識していくことの大切さを発見します。もし私たちが自分勝手にやっているのであればそれは自分勝手であったり人間的な働きであったりいいことをしているという自己満足で終わってしまうかも知れません。またその逆に神様が一方的に本人の意志を無視して召しているのであればそれも信仰の本質から外れてしまいます。権力によらず、能力によらず、私の霊によってとゼカリヤ書で記されているように神様の召しは私たちの権力や能力などの環境的な要因で与えられているものよりも内面的なものを神様の霊によって行われるべきものであることが分かります。つまり私たちの権威や能力や経済力ではなく信仰によってその献身の歩みは成り立つということです。しかし現実問題として働きの中で様々な必要を感じ自分で本当によかったのかと疑問を感じることもあるでしょう。そういった壁に当たる時にこそ神様に信頼していきましょう。召して下さる方は主の時に、その働きを全うして下さる御方だからです。そして召しとは牧師や宣教師だけのものではなく信じる人すべてに当てはめることが出来ます。その家庭や地域、あらゆるコミュニティの中で世の光、地の塩としてイエス様と共に歩んでいきましょう。

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