週報より~救いが必要な理由~

私たちはそれぞれの文化によって価値観が違うとしても、良いことと悪いことの分別は物心がついてから徐々に身につけていき、そして自分がしたいと思う良いことと、また実際にどれだけ出来ているか、また悪いと分かっていてもしてしまう弱さなどを経験したことがあると思います。いいわけや理由はあると思いますがすべて自分が望んでいる最高の状態に言動を一致させていくことは非常に困難であり完全に出来ない現実にぶつかるのではないでしょうか?ここに罪と律法の現実と救いが必要な理由があります。罪というときつい響きですが弱さや的外れなこと、流されてしまった経験などもそこに含んでいくならばもう少し柔らかく理解しやすくなると思います。決められている規則を破った時によく聞くのが「つい」ということばです。「つい魔が差した」とか「ついうっかり」といった具合です。私たちは知っていても突発的に過ちを犯してしまう弱さがあり、それが罪に繋がっていきます。多くの犯罪を見ても動機はこの「つい」に基づくケースが多いと思います。私たちはそういったみじめな状態から救いを受ける必要があるのではないでしょうか?自分をより正しく守るためにも救われる必要があるのではないでしょうか?イエス・キリストは私たちと同じように人としての生涯を歩まれ、そこに罪がなかったと聖書は記しています。唯一失敗をしなかった方が私たちの救い主として、王として、友として、またしもべとして私たちを引き上げ、救って下さるのです。しかも行いや経済によるのでもなく、誰でも可能な信じるというひとつの決断によって。主にあって生き生きと輝いて生きていきましょう。

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