終わりの時代に起る不信仰

聖書には再臨のことや終わりの時代にどのようなことが起るのかも書かれています。その中に終わりの時代に起る不信仰についても書かれています。注意深く見るとその中に虚無感からくる感情や刹那主義が見えてきます。 ネット社会になって受け取る情報に広がりが出ると同時に偏りも生じやすい状況があります。特に聖書をバランス良く受けとめていく上で自分に都合のいいことば、言って欲しいことだけを抜粋して受け取ることによる弊害も出る可能性も高くなっています。 聖書が明確に語るのは神、罪、救いという大きなテーマ、またそれぞれを深く掘り下げる中で私たちがどのように神を信じ、イエス・キリストによる救いを受け、聖霊の助けを受けて歩んでいくかというところへ発展していきます。その過程で不信仰と聖書で書かれている要素を自分の中から見いだして主の前に悔い改める心を持って進むことは自分を保つ上でとても大切なことです。 自分の意見よりもみことばに忠実な者となっていくことが出来るよう日々神様を見上げつつ、自分の心を見守り、きよめられ、変えられていきましょう。 [Read more...]

死を打ち破る信仰~Iコリント15:51-58

人がどんな国、地域、文化に生まれたとしてもいつか必ず経験する事柄として「死」があります。この「死」とは肉体の死を意味していますがその後どうなるのか?という問題に対してはいろんな考えが存在しています。  聖書にイエス・キリストを信じる者となってこの「死」を迎えた者に関して眠ることになるのではなく変えられるとIコリント15章に記されています。また終末の時に主の再臨があることも記されています。 つまり肉体の「死」を通してか、主の「再臨」を通してイエス・キリストにある者は変えられます。何に変えられるのかというと朽ちるものが朽ちないものに変えられます。 そして永遠に天国で天の父なる神様と共に喜びと平安のうちに過ごすようになります。ここにイエス・キリストによる救い、信仰による救いの結果があります。 肉体の死は完全な終わりや無に帰することを聖書は意味していません。死を恐れたり、死を意識しすぎることによる虚無感に苛まれている状態になること、また唯物論や快楽主義に陥ることなく、神様と自分との関係、そしてそこから来る隣人との関係を聖書から正しく汲み取り、信仰により日々生かされていきましょう。 [Read more...]

真理に繋がる集まり~Iコリント11;17-22

教会とは本来主によって集められた人たちの集まりです。その本質を知っていかなければ一般的な社交の場になったり、お互いに一致を目指すのではなく分裂していってしまいます。Iコリントにはこういった問題について「本当の信者が明らかにされるために分派が起るのもやむをえない」と記しています。それだけ人の集まりは本来難しいことです。 本当の信者という表現だけを見るとそうでない人たちと別れるという見方がありますが、プロテスタントの教派などを見るとそれぞれに強調点の違いがあったり、背景の違いがあったりしますが同じ神様を信じていることには変わりません。そしてどこを見て一致していくかという問題になります。お互いの小さな違いに目を留めるならば一致は難しいですがイエス・キリストにある救いという部分にフォーカスするならば一致しやすくなります。 そして大切なことはお互いの違いを検証することよりも共に隣人に愛を注いでいくことを大事にするということです。キリストの体としてつながり合い共に働くことが大切です。共に真理につながり、成熟し、励まし合って歩んでいきましょう! [Read more...]