過去を問うのではなく、希望を与えるため主イエスは来られた

マルコの福音書6章1-6節より

2020年6月14日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書の時代から預言者は故郷や親族、家族の間では歓迎されないと言われてきました。イエスこそ究極の預言者-神に遣わされた神の子でした。神であるイエスはすべてのものを造られ、ご自分の国であるイスラエルに来られたのに、ご自分の民はこのイエスを受け入れませんでした(ヨハネ1:10-11)。

イスラエルの人々が待ち望んだ約束の救い主であるイエスは彼らが思い描いたような武力的、政治的な王ではありませんでした。イエスは汚い飼い葉おけで生まれ、人に仕え、愛を説き、指導者たちに命を狙われても貧しい者や罪人に神の国の福音を伝え、遂に人々から捨てられ、いみ嫌われた十字架で殺されました。

人間は外観やこの世的な価値で人を判断する性質があります。生まれながらの人間はイエスが人であり、神であることを信じ迎えることができません。

イエスがかつて大工として親孝行で尊敬される良い人であることは知っていても、イエスが神であると信じなければ、罪からの救いはありません(ヨハ5:36-40)。

彼らの何も期待しない不信仰な姿勢のため、生まれ故郷のナザレでは、イエスはこれまでの奇跡をなされません。奇跡を待ち望む信仰の姿勢に神様は応えられます。

しかし、自分の罪の汚れを知る者はイエスを神であり救い主として信じ受け入れます。イエスを信じ救われた者は、過去の過ち、悪い経歴、生い立ちも一切、神様は責められません。いかなる妨害もあなたを阻むことはできません。古いあなたは一切過ぎ去り、まったくあなたは新しくされます(Ⅱコリ5:16-17)。キリストの十字架の罪の赦しに生きていいのです。