キリストに捧げるなら、あなたはいつまでもキリストの記念とされる

マルコの福音書13章28-37節より

2021年4月25日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

ユダヤの3大祭りのひとつの過越しの祭りが近づいていました。祭りには多くの巡礼者がエルサレムに集まります。人々がイエスの教えを信じることを恐れたユダヤの指導者たちは一刻も早くイエスをだまして捕まえて処刑しようとします。けれども民衆の騒ぎを恐れていました。自分たちに害が及ぶことを恐れていました。

それとは対照的に十字架で死ぬときが近づいたイエスはベタニヤでツァラアトにおかされたシモンの家にいました。ツァラアトの患者は汚れている者とされ誰も近づきませんでした。イエスのひとりひとりに接するご生涯の働きはすべて十字架に対しての愛の歩みでした。

イエスに罪赦されたひとりの女は高価な純粋なナルドの香油をイエスの頭に注ぎました。弟子のイスカリオテのユダは何のために300万もする香油をこんなに無駄にしたのかと女を責めます。

この女は自分の大切なものをイエス様に差し出しました。自分でも何をしているのかわからなかったかも知れません。しかし、イエス様は、「この女は、十字架で死ぬ私のために、油を塗って埋葬の準備をしてくれた。この女は立派なことをしたのです。」と言われます。

私たちが心から、大切なものをイエス様に捧げるとき、それをイエス様はこの上なく喜ばれます。それは、高価な物でなくてもよいのです。イエス様に捧げる心からの感謝の祈りや賛美かもしれません。他の誰かのために何かできることかも知れません。

心をイエス様に注ぎだして、自分自身をイエス様に用いていただくことです。それが礼拝です。それが罪赦された者の生きる姿です。

イエス様は、十字架で一番大切なご自身のきよい命を私たちのために差し出してくださいました。私たちが受けるべき罪の身代わりのために十字架で死んでくださったイエス様を、心から感謝して、信じて救いを受けることが何より、イエス様が喜んでくださることです。

過越しの祭りは旧約のユダヤの民がエジプトから救い出される夜、各家で雄羊の血によって、その家の長子の命が守られたことの記念です。イエス・キリストはまことの過越しの子羊として十字架で死んでくださったのです。

このお方によって、すべて信じる者は罪から救われ、永遠の命が与えられます。

イエス様を信じた者は、神様の子どもとされたことを記念としていつまでも覚えられるのです。あなたはイエス様にとって高価で尊い存在なのです。いつまでも永遠に決して忘れられることはありません。あなたは神様にとって記念すべき存在なのです。

古きは過ぎ去り新しくされる

マルコの福音書13章28-37節より

2021年4月18日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書には終わりの時について、①その日は必ず来る②その日がいつかは父なる神以外は誰もわからないと書かれています。

この世界はすべて過ぎ去って滅びます。そして神が治める新しい完全な罪も悪もない世界に変えられます。生まれ持って罪がある人間はそのままで新天新地に入ることができません。天国に入るためにはキリストを信じて罪赦されて新しく変えられなければなりません。それは今現在の生き方につながっています。世に流されずに、キリストを信じて喜びと希望もつ歩みです。罪赦された者として、キリストに似た者に変えられる歩みです。

この世の終わりには間違った教えや、にせものや悪がはびこります。それらに惑わさないように目を覚ましていなければなりません。目を覚ますとはイエス・キリストから目を離さないことです。いつも、心の中にいるキリストを覚えることです。聖書の言葉に従って生きることです。キリストを愛することです。その時、自分を愛して、他の人を愛する豊かな命を生きることができます。

この世の教えは魅力的に見えますが、一時の流行りで何の力もありません。人間を罪から救う力はありません。罪から救われなければ、以前として罪の奴隷状態で現実は何も変わらず、死んだ後、永遠の滅びに入れられます。

聖書だけが、あなたにまことの知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。

キリストは人間の罪の結果である罪の刑罰を十字架で受け、三日目に死と罪からよみがえられました。そして、あなたのために、悪から守られ、きよめられ、神の愛から離れないように天で祈っておられます。

このキリストの十字架をあなたが自分のこととして、受け入れるならあなたは罪から解放され、新しい命が与えられます。あなたの霊は生きています。

キリストを神の御子と信じる者は、この罪の支配する世の中にあっても勝利者です。

罪に打ち勝つ力が与えられています。死によって滅びない永遠の命が与えられています。キリストに愛を受けて、愛をあらわす者に変えられました。

どのような人生を迎えたとしても、神はあなたの労苦を覚えて、終わりの日に、報いて救ってくださいます。

キリストはすべての人の完全なさばきを行うために必ず来られます。すべての人はこのことを厳粛に受け止め、自分の罪を悔い改めて、キリストによる救いを受けることが必要です。

それが十字架で死なれたキリストの愛に応えることです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書3章16節)

終末に明らかにされる本物と偽物

マルコの福音書13章14-27節より

2021年4月18日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

オリーブ山で弟子たちに話したキリストの終末預言の一部は紀元70年にエルサレム神殿の滅亡で成就しました。飢餓とローマ軍の攻撃によるエルサレムの最後は歴史に残る悲惨な出来事でした。しかし、終末はそれとは比べることができない、天地創造から今までなかったような大患難時代が訪れます。終末で苦しむ人たちが救いを求めることを利用して、偽物の救世主(キリスト)がたくさん現れます。

「この世と世の欲はすべて滅び去ります」と聖書は言います。この世を愛し執着するなら、一番大切な霊の命を失います。この世はきらびやかな偽物をちらつかせて、死を忘れさせたり、死を美化して、恐るべき死の正体である永遠の滅び(刑罰)に陥れようとしています。

死は神に対してすべての人が犯した罪の刑罰です。永遠に続く終わらない苦しみです。キリストは人間を滅びの淵から救い出すために、十字架で死なれ、罪と死に打ち勝ちよみがえられたのです。聖書は過去の事実だけでなく、これから起こることを信じることも大切です。

キリストは必ずもう一度、この地上に来られることを忘れてはなりません。キリストが来られる時は、すべての人にはっきりとわかります。神に対する生き方をはっきりさせる時が来るのです。気づかずにすまされる人は一人もいません。

その時には、すべての人が自分の罪を赦してくださいとキリストにすがります。しかし、その時ではもう遅いのです。

完全な審判者である神のキリストを見たなら、いかなる人も神を信じるのです。それは信仰ではないのです。罪の悔い改めではないのです。神は信仰を喜ばれます。

聖書のみことばの約束により、信仰により、自分が神の前に罪人であり、キリストが救い主であることを信じることが救いなのです。

終わりのさばきで、地上の生きている人も、死んでしまった人もすべての人間がさばかれます。永遠の天の御国に入るか、永遠の滅びに落ちるか、その判断は生きている間に、キリストを自分の罪からの救い主として信じたかどうかだけです。

聖書の始まりは神が天地を創造されたこと。聖書の最後は神であるキリストがもう一度、この世に来られること。そして、このキリストを信じてすべての人が祝福されることを神は望んでおられますと言って聖書は終わります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書3章16節)

キリストのよみがえりは死に打ち勝つ真の希望

コリント人への手紙第一15章12-22節より

2021年4月4日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

今、世界を支配しているのは死です。いかなる権力者も、お金持ちも、有名人も善人も極悪人も必ず死んでいきます。死の前にすべての人はのみ込まれていくのです。だったら、生きている間に出来るだけ楽しもうという風潮があります。富と快楽を求める虚しい人生です。人間の人生とはその程度なのでしょうか。神がいない人生は虚しく退屈で希望がありません。生まれた意味も、人生の目的もありません。
すべてを虚しくする死からの救いのために宗教と呼ばれるものたくさんあります。
そのほとんどは人間がつくった神や宗教です。それらの教祖や代表は人間です。その教祖はいつか必ず死んでいきます。死の前に無力な人間がつくった宗教には死からの救いはありません。
しかし、真実がひとつだけあります。人間を創ったまことの神を聖書は紹介しています。その中にキリストの十字架の死と復活がはっきりと書かれています。それは、キリストの生涯の中で、聖書の中で、歴史の中で最も重要な出来事なのです。
最初の人アダムを通して、全世界に罪と死が入りました。すべての人間は罪をもって生まれてきます。罪はこの世と人の現実です。罪によって神と断絶した状態を霊的な死と言います。神を無視して、神から離れて生きるなら、人間は自己中心、心のまま、欲望のまま生きることになります。その最後は永遠の死と呼ばれ、神と永遠に断絶され、永遠に滅びの中に放り込まれます。
しかし、神であるキリストが人間の受けるべき罪の刑罰を十字架の上で受けられました。それだけでなく、三日目に罪と死に打ち勝ち、よみがえられたのです。そのよみがえりの命に死は意味をなしません。この瞬間に世界は死の支配から、キリストの命という希望が誕生したのです。
キリストの死と復活が、自分の罪のためであると信じて、自己中心の生き方から神に方向転換して生きると望むなら、あなたは死んでも、よみがえり、永遠に生きます。
すべての人間はキリストを信じて救われなければなりません。神に愛されて大切な命を受けた者が、永遠に地獄で苦しみ続けて滅んではいけないのです。
あなたは神様に目的をもって今生かされています。それは死んで、もともと存在しなかったように消えて忘れ去られるのではありません。永遠に神と共に罪も死もない完全な天国を生きていくのです。キリストの十字架はあなたのためなのです。その永遠につながる今の時を生きることが希望です。
ぜひ、このイースター(復活祭)にキリストをあなたの救い主として信じましょう。