心配しないで生きる

マタイの福音書6章25-34節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月23日

<聖書>

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配(しんぱい)したり、また、からだのことで、何を着(き)ようかと心配(しんぱい)したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物(きもの)よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔(たねま)きもせず、刈(か)り入(い)れもせず、倉(くら)に納(おさ)めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養(やしな)っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配(しんぱい)したからといって、自分のいのちを少しでも延(の)ばすことができますか。なぜ着物(きもの)のことで心配(しんぱい)するのですか。野のゆりがどうして育(そだ)つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華(えいが)を窮(きわ)めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾(きかざ)ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉(ろ)に投(な)げ込(こ)まれる野の草さえ、神はこれほどに装(よそお)ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄(うす)い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着(き)るか、などと言って心配(しんぱい)するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人(いほうじん)が切に求(もと)めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要(ひつよう)であることを知っておられます。だから、神の国とその義(ぎ)とをまず第一に求(もと)めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与(あた)えられます。だから、あすのための心配(しんぱい)は無用(むよう)です。あすのことはあすが心配(しんぱい)します。労苦(ろうく)はその日その日に、十分あります。

(マタイの福音書6章25-34節)

<説教>

神を信じない異邦人(いほうじん)は食べ物のこと、着物のことを心配(しんぱい)します。将来(しょうらい)のことを心配(しんぱい)します。

しかし、どれだけ心配(しんぱい)しても決して問題の解決(かいけつ)にはなりません。かえって体や精神的に悪いことさえあります。ほとんどの病気はストレスが原因だと言われています。

人間の心配(しんぱい)は、完全に信頼(しんらい)する存在、神を信じないことが原因です。神さまを認(みと)めないならば、すべての起こりうる心配(しんぱい)は自分でどうにかしなくてはいけないのです。それは罪(つみ)を犯(おか)して神様から離(はな)れてしまった人間の生き方となってしまいました。

では心配(しんぱい)しないためにどうすればいいのでしょうか。

①     自然の生きものの姿を見て学ぶ。

イエス様は働かなくていいとは言っていません。鳥も働いています(雀(すずめ)などは働き者で有名です)。しかし将来(しょうらい)のことを心配(しんぱい)する鳥や花はいません。しかし、神さまはそんな鳥を毎日養(やしな)い、一日で枯(か)れてしまう花でさえも、最高の美しさで装(よそお)ってくださいます。鳥や花より優(すぐ)れた人間を神さまが養(やしな)ってくださらないはずがありません。

②    神さまがすべてを支配(しはい)して守(まも)ってくださることをいつも覚(おぼ)えて、そこに自分を置(お)いて生活する。

イエス様は一番大切な守(まも)るべきことは自分を愛するように隣人(となりびと)を愛することだと言われます。愛の心を持って誰(だれ)かを思いやって生きる。誰(だれ)かのために生きるとき自分の心配(しんぱい)はなくなっていきます。信仰(しんこう)をもって神さまのことばを実践(じっせん)するとき、自分の心配(しんぱい)はなくなっていきます。

③    今日を精一杯生きて、明日の心配(しんぱい)はしない。

いくら明日を心配(しんぱい)しても私たちが生きることができるのは今日だけです。今日という日を罪(つみ)から離(はな)れて正しく、感謝して生きることに努(つと)めましょう。

もし、あなたが今までの人生をすべて、事前(じぜん)に知らされていたら、今日まで生きてこられたでしょうか。今までたくさんの苦労(くろう)、試練(しれん)があったことでしょう。しかし、あなたは、何が起こるか知らないで、心配(しんぱい)せずに生きてきましたが、今日まで生きて来られたのです。

神さまはあなたを守(まも)り養(やしな)ってくださったのです。

だから、神の国とその義(ぎ)とをまず第一に求(もと)めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与(あた)えられます。

マタイの福音書6:33

このみことばは聖書の中でも、とても素晴(すば)らしい約束の一つです。神の国とは神の支配(しはい)される領域(りょういき)をあらわします。神さまのご支配(しはい)される御国(みくに)の中で生活しようと努(つと)め、神さまのみことばに従(したが)って生きることを何より第一に求(もと)め続(つづ)けるなら、必ず、神さまがあなたの必要を備(そな)えてくださいます。

イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりを自分の罪(つみ)の身代(みが)わりと信じる者は、そのような生き方に変えられます。あらゆることを心配(しんぱい)しながら単独(たんどく)で生きる人生から、神さまと心が結(むす)び付(つ)けられるのです。

あなたのすべての罪(つみ)を赦(ゆる)してくださった神さまは、愛をもって、あなたのすべての心配(しんぱい)もご自身の心配(しんぱい)事として引き受けてくださいます。

あなたがたの思(おも)い煩(わずら)いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配(しんぱい)してくださるからです。

Ⅰペテロ5:7

神の祝福に生きよう

創世記25章19-26節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月16日

<聖書>

これはアブラハムの子イサクの歴史(れきし)である。アブラハムはイサクを生んだ。イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘(むすめ)で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻(つま)にめとったときは、四十歳であった。イサクは自分の妻(つま)のために【主(しゅ)】に祈願(きがん)した。彼女が不妊(ふにん)の女であったからである。【主(しゅ)】は彼の祈(いの)りに答えられた。それで彼の妻(つま)リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹(はら)の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして【主(しゅ)】のみこころを求めに行った。すると【主(しゅ)】は彼女に仰(おお)せられた。「二つの国があなたの胎内(たいない)にあり、二つの国民(くにたみ)があなたから分かれ出る。一つの国民(くにたみ)は他の国民(くにたみ)より強く、兄が弟に仕える。」出産(しゅっさん)の時が満(み)ちると、見よ、ふたごが胎内(たいない)にいた。最初(さいしょ)に出て来た子は、赤くて、全身(ぜんしん)毛(け)衣(ころも)のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。

(創世記(そうせいき)25章19-26節)

<説教>

神(かみ)さまは、ご自身の国をつくることによって、祝福(しゅくふく)をご計画(けいかく)されました。それは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)のイスラエルから始まり、今はキリストを信じる者が集められた教会(きょうかい)です。イスラエルは、アブラハムから始まり、その子イサクはリベカによってエサウとヤコブが生まれます。

しかし、二人は外見(がいけん)も性格(せいかく)もまるで違っていました。エサウは猟師(りょうし)で野の人で、ヤコブは天幕(てんまく)で神(かみ)さまに心を向けて生きる羊飼(ひつじか)いでした。

この双子(ふたご)の兄弟(きょうだい)はイサク夫婦(ふうふ)が神(かみ)さまに祈(いの)り求(もと)めて20年目に与(あた)えられた子どもでした。しかし、生まれる前から、リベカの腹(はら)の中でぶつかり合っていました。神(かみ)さまは、エサウとヤコブからそれぞれ国が生まれ、兄が弟に仕(つか)えると、リベカに預言(よげん)します。ヤコブの家系(かけい)から、神(かみ)の国をおこそうと計画(けいかく)されていました。

そして、あるとき兄のエサウが猟(りょう)からお腹(なか)を減(へ)らして帰ったとき、弟のヤコブは美味(おい)しそうな豆(まめ)料理(りょうり)を作っていました。そのごちそうを欲しがるエサウに、ヤコブは長子(ちょうし)の権利(けんり)を求(もと)めます。

エサウは空腹(くうふく)を満(み)たすために、よく考えることもなく、自分の長子(ちょうし)の権利(けんり)をヤコブに売ってしまいます。

当時のイスラエルは、長子(ちょうし)は他の子どもたちより2倍の相続(そうぞく)財産(ざいさん)をもらえました。人も家畜(かちく)も初子(ういご)(最初に母から生まれたもの)は神(かみ)さまのものとされ、特別な価値(かち)があったのです。それと同時に神(かみ)の命令(めいれい)を守り、神(かみ)の道に仕(つか)えて生きる責任(せきにん)と義務(ぎむ)があったのです。

ヤコブも親の財産(ざいさん)をたくさんもらいたいと思いました。しかし、長子(ちょうし)の権利(けんり)はそれよりも、神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)を意味(いみ)していたのです。

神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)とは、何となくありがたい気分がすることではありません。神(かみ)さまを信(しん)じる者は、神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)が与(あた)えられます。それは、信(しん)じる者に変化を与(あた)えるものです。次のようなものです。

1. 数量的に増(ふ)えること
2. 力が与(あた)えられること
3. 必要(ひつよう)な物が備(そな)えられること
4. 生きる使命(しめい)や任務(にんむ)が与(あた)えられること
5. 他の人に神(かみ)の恵(めぐ)みを分け与(あた)えること

お金や富(とみ)が増(ま)し加(くわ)えられるのも神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)だと、聖書(せいしょ)にあります。

主(しゅ)の祝福(しゅくふく)そのものが人を富(と)ませ、人の苦労(くろう)は何もそれに加(くわ)えない。

箴言10:22

また、神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)は与(あた)えられるだけでなく、受(う)けた恵(めぐ)みを、他の人に与(あた)えることでもあります。

悪をもって悪に報(むく)いず、侮辱(ぶじょく)をもって侮辱(ぶじょく)に報(むく)いず、かえって祝福(しゅくふく)を与(あた)えなさい。あなたがたは祝福(しゅくふく)を受(う)け継(つ)ぐために召(め)されたのだからです。                                       

Ⅰペテロ3:9

ヤコブも人をだまして、自分の利得に生きる者でしたが、その生涯(しょうがい)にわたり神(かみ)さまのあわれみと訓練(くんれん)を受(う)け、まことの神(かみ)さまを知っていきます。やがてヤコブは授(さず)かった12人の子どもに神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)を祈(いの)り、祝福(しゅくふく)を与(あた)える者に変えられていきます。 この12人の子ども(後のイスラエル12部族)からダビデが生まれ、やがてその子孫からイエス・キリストがお生まれになります。

今はイエス様を信じる者は、神(かみ)さまの長子(ちょうし)とされます。神(かみ)さまの子が受(う)けるすべての霊的(れいてき)祝福(しゅくふく)が与(あた)えられます。

欲(よく)や目先のこと、物質的(ぶっしつてき)なこと、この地上のことを求めるだけでは人は幸せになることはできません。神(かみ)さまを信じて、罪(つみ)を赦(ゆる)しいただき、神(かみ)さまの子どもとされ家族として生きる時、神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)を受(う)けて、まことの豊かな人生をおくることができるのです。

イエス様の十字架(じゅうじか)によって与(あた)えられる祝福(しゅくふく)を感謝(かんしゃ)しましょう。

このことは、アブラハムへの祝福(しゅくふく)が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受(う)けるためなのです。

ガラテヤ書3:14

愛に生きる

ヨハネの手紙第一 4章7-12節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月9日

<聖書>

愛(あい)する者たち。私たちは、互(たが)いに愛(あい)し合いましょう。愛(あい)は神(かみ)から出ているのです。愛(あい)のある者はみな神(かみ)から生まれ、神(かみ)を知っています。愛(あい)のない者に、神(かみ)はわかりません。なぜなら神(かみ)は愛(あい)だからです。神(かみ)はそのひとり子を世に遣(つか)わし、その方によって私たちに、いのちを得(え)させてくださいました。ここに、神(かみ)の愛(あい)が私たちに示(しめ)されたのです。私たちが神(かみ)を愛(あい)したのではなく、神(かみ)が私たちを愛(あい)し、私たちの罪(つみ)のために、なだめの供(そな)え物(ぶつ)としての御子(みこ)を遣(つか)わされました。ここに愛(あい)があるのです。愛(あい)する者たち。神(かみ)がこれほどまでに私たちを愛(あい)してくださったのなら、私たちもまた互(たが)いに愛(あい)し合うべきです。いまだかつて、だれも神(かみ)を見た者はありません。もし私たちが互(たが)いに愛(あい)し合うなら、神(かみ)は私たちのうちにおられ、神(かみ)の愛(あい)が私たちのうちに全(まっと)うされるのです。

(ヨハネの手紙第一4章7-12節)

<説教>

1902年にカナダで生まれたアルフレッド・ラッセル・ストーンは幼(おさな)い頃(ころ)から農業(のうぎょう)を愛(あい)しました。24歳から日本の長野(ながの)、北海道(ほっかいどう)で農村(のうそん)伝道(でんどう)に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げた宣教師(せんきょうし)でした。

1920年生まれのディーン・リーパーは25歳から戦後(せんご)の焼(や)け野原(のはら)の東京(とうきょう)に宣教師(せんきょうし)として来日(らいにち)します。日本人になろうと銭湯(せんとう)に行っては日本人と背中(せなか)を流(なが)し合(あ)うリーパー宣教師(せんきょうし)は、プロ級の手品師(てじなし)でもありました。

1954年9月26日に大型の台風(たいふう)15号が接近(せっきん)する中、函館(はこだて)から青森(あおもり)へ出航(しゅっこう)した青函(せいかん)連絡船(れんらくせん)「洞爺(とうや)丸号(まるごう)」にこの2人の宣教師(せんきょうし)が乗船(じょうせん)していました。

洞爺(とうや)丸号(まるごう)は約4時間後の22時45分に沈没(ちんぼつ)し、死者(ししゃ)・行方(ゆくえ)不明者(ふめいしゃ)あわせて1155人におよぶ、日本(にほん)海難(かいなん)史上(しじょう)最悪(さいあく)の事故(じこ)となりました。

洞爺(とうや)丸号(まるごう)が台風(たいふう)に遭(あ)って、船が大きく真横(まよこ)に傾(かたむ)いたとき、

リーパー宣教師(せんきょうし)は恐怖(きょうふ)におびえる乗客(じょうきゃく)に、やさしく語(かた)りかけ、自慢(じまん)の手品(てじな)を披露(ひろう)、あざやかな手さばきに、子どもも大人も大喜(おおよろこ)びします。一時(いちじ)船室(せんしつ)に落(お)ち着(つ)きがもどりますが、やがて船は大きく傾(かたむ)き、船室(せんしつ)に水が流(なが)れこみます。リーパー宣教師(せんきょうし)は、同乗(どうじょう)していたストーン宣教師(せんきょうし)、オース宣教師(せんきょうし)と力をあわせ、悲鳴(ひめい)の渦(うず)のなかで逃(に)げまどう乗客(じょうきゃく)に救命(きゅうめい)具(ぐ)を配(くば)り、着用(ちゃくよう)に手間取(てまど)る子どもや女性を助(たす)けました。ストーン宣教師(せんきょうし)は、救命(きゅうめい)具(ぐ)のない学生を見つけ「あなたの前途(ぜんと)は長いから」といって救命(きゅうめい)具(ぐ)をゆずりました。リーパー宣教師(せんきょうし)は女性や子どもたちに救命(きゅうめい)具(ぐ)を着(き)せてやり、最後まで励(はげ)ましの言葉をかけ続(つづ)けたと伝(つた)えられています。

後日、七重(ななえ)浜(はま)で救命(きゅうめい)具(ぐ)のない二人の宣教師(せんきょうし)の裸(はだか)の遺体(いたい)が発見(はっけん)されました。また台風(たいふう)の荒波(あらなみ)の中では、ほとんどの人が救命(きゅうめい)具(ぐ)を着(き)ていても助(たす)かりませんでしたが、彼らの救命(きゅうめい)具(ぐ)をもらった若者と子どもは奇跡的(きせきてき)に助(たす)かりました。

他人のために命をすてた洞爺(とうや)丸号(まるごう)の宣教師(せんきょうし)。自分の命を犠牲(ぎせい)にして人々を救った宣教師(せんきょうし)。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛(あい)はだれも持っていません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)15章13節)

神(かみ)は愛(あい)なり

(ヨハネの手紙第一4章8節)

神(かみ)さまの愛(あい)をアガペーと言います。無条件(むじょうけん)の愛(あい)、価値(かち)なき者を愛(あい)する愛(あい)です。

その神(かみ)の愛(あい)があらわされたのが十字架(じゅうじか)です。

イエス・キリストは、罪(つみ)の中で死んでいる私たち人間に、いのちを与(あた)えるために十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

私たちは生まれたままの状態(じょうたい)では、神(かみ)を知(し)らず、神(かみ)から離(ばな)れ、罪深(つみぶか)く自己(じこ)中心(ちゅうしん)で神(かみ)に敵対(てきたい)する罪人(つみびと)でした。

しかし、十字架(じゅうじか)のもとで神(かみ)の計(はか)り知(し)れない愛(あい)を知(し)り、そのいのちにあずかった者は心(こころ)の欲(よく)のままの生活に戻(もど)ることは出来ません。互(たが)いに愛(あい)し合うべきなのです。

その姿(すがた)によって、神(かみ)がおられると人は知(し)るのです。

イエス様はすべての人に言われています。

互(たが)いに愛(あい)し合いなさい。わたしがあなたがたを愛(あい)したように、あなたがたも互(たが)いに愛(あい)し合いなさい。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章34節)

イエス・キリストの十字架(じゅうじか)はすべての人を救(すく)うことができます。その救(すく)いを受(う)けたいとあなたが決心(けっしん)するかどうかだけです。

さあ、罪(つみ)を捨(す)て去(さ)り、新しく、愛(あい)に生きようではありませんか。

イエスは道

ヨハネの福音書13章36節-14章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月2日

<聖書>

シモン・ペテロがイエスに言った。「主(しゅ)よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主(しゅ)よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨(す)てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨(す)てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告(つ)げます。鶏(にわとり)が鳴(な)くまでに、あなたは三度(さんど)わたしを知らないと言います。」
「あなたがたは心を騒(さわ)がしてはなりません。神(かみ)を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住(す)まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備(そな)えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備(そな)えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎(むか)えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主(しゅ)よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道(みち)であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通(とお)してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章36節-14章11節)

<説教>

イエスが十字架(じゅうじか)に架(か)かって死ぬときが近づいていました。しかし弟子(でし)たちは、イエスがどこへ行こうとしているのかわかりませんでした。弟子(でし)たちはイエスが自分たちから遠(とお)く離(はな)れてしまうことを恐(おそ)れて、心が騒(さわ)いでいたのです。

イエスはそんな弟子(でし)たちに次のことを約束(やくそく)されます。

  1. イエスを信じる者は、かならず天国(てんごく)に用意(ようい)された「住まい」それも大邸宅(だいていたく)に住(す)むことができる。
  2. イエスは弟子(でし)たちのついていけない所に行くが、必(かなら)ずもう一度戻(もど)って来る。

私たちが第一に心配(しんぱい)すること、心騒(さわ)ぐことは将来(しょうらい)どうなるかということです。イエスを信じる者はこの神の約束(やくそく)を信(しん)じなければなりません。イエスはあなたを必(かなら)ず迎(むか)えに来て、天国(てんごく)に住(す)まわせてくださいます。

それでも、イエスの言われることがわからない弟子(でし)たちに言われます。

「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

(ヨハネの福音書14:6)

「イエスは道」とはどういう意味でしょうか。

「分(わ)け登(のぼ)る麓(ふもと)の道は多けれど同じ高嶺(たかね)の月を見るかな」

という句(く)があります。これはどんな宗教(しゅうきょう)も、結局(けっきょく)、最後は救(すく)われて天国(てんごく)へ行けるのだからどの宗教(しゅうきょう)も同じだという意味です。

しかし、聖書(せいしょ)はイエスを信(しん)じなければ、父なる神のもとへはいけないと明らかにしています。

はじめて行く場所への道を誰(だれ)かに聞いた場合、どんなに丁寧(ていねい)に行き方を教(おし)えてもらっても、本当にそこへたどり着(つ)けるかわかりません。

一番確実(かくじつ)な方法は、その目的地(もくてきち)への道を知っている人が、一緒(いっしょ)に案内(あんない)してくれることです。

私たちは一度切りの人生の中でどうやって生きていいのか迷(まよ)います。何が正しいのかわからなくなります。じっさい聖書(せいしょ)は次のように書いています。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言(しんげん)14:12)

私たちをゴールに案内(あんない)してくれるのはイエスご自身(じしん)です。イエスとともに生きる時、安全(あんぜん)です。

イエスの言うことをよく聞いて、イエスを知ることが大切です。

道は踏(ふ)みつけられて道となります。

イエスは人間の罪(つみ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。イエスの十字架(じゅうじか)の犠牲(ぎせい)によって、信(しん)じる者は神と和解(わかい)することができます。イエスが神への道を開いてくださいました。

人が救(すく)われるためにイエスが道となってくださいました。このイエスを信(しん)じて、いつも、このお方の聖書(せいしょ)のみことばに従(したが)うとき、偽(いつわ)りの滅(ほろ)びへの道から逃(のが)れて、天国に住(す)まうことができるのです。

この道は、人間の力で見つけて入れる道ではありません。

自分の罪(つみ)深(ぶか)さを知り、イエスを信(しん)じて、悔(く)い改(あらた)めて生きようとする者だけが見出すことのできる小さい門、狭(せま)い道なのです。そのときイエスが道となってくださるのです。

イエスを信(しん)じて、このお方に従(したが)う者は決(けっ)して、迷(まよ)って行(い)き詰(づま)ったりせず、イエスが迎(むか)えに来てくださり、神の用意(ようい)された天国の住(す)まいに必ずたどり着(つ)くことができます。

何より大切なのはこの道に入ることです。他の道では決(けっ)して天国につながることはありません。この道に入る者は幸(さいわ)いです。

狭(せま)い門から入りなさい。滅(ほろ)びに至(いた)る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至(いた)る門は小さく、その道は狭(せま)く、それを見いだす者はまれです。

(マタイ7:13-14)

日々の信仰が与える勝利

サムエル記第一17章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月25日

<聖書>

ペリシテ人は戦(たたか)いのために軍隊(ぐんたい)を召集(しょうしゅう)した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣(じん)を敷(し)いた。サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣(じん)を敷(し)き、ペリシテ人を迎(むか)え撃(う)つため、戦(たたか)いの備(そな)えをした。ペリシテ人は向(む)こう側(がわ)の山の上に、イスラエル人はこちら側(がわ)の山の上に、谷を隔(へだ)てて相対(あいたい)した。ときに、ペリシテ人の陣営(じんえい)から、ひとりの代表(だいひょう)戦士(せんし)が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背(せ)の高さは六キュビト半。頭には青銅(せいどう)のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅(せいどう)で五千シェケル。足には青銅(せいどう)のすね当て、背中には青銅(せいどう)の投(な)げ槍(やり)。槍(やり)の柄(え)は機織(はたお)りの巻(ま)き棒(ぼう)のようであり、槍(やり)の穂先(ほさき)は、鉄(てつ)で六百シェケル。盾(たて)持(も)ちが彼の先を歩いていた。ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣(じん)に向(む)かって叫(さけ)んで言った。「おまえらは、なぜ、並(なら)んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷(どれい)ではないのか。ひとりを選(えら)んで、おれのところによこせ。おれと勝負(しょうぶ)して勝(か)ち、おれを打(う)ち殺(ころ)すなら、おれたちはおまえらの奴隷(どれい)となる。もし、おれが勝(か)って、そいつを殺(ころ)せば、おまえらがおれたちの奴隷(どれい)となり、おれたちに仕(つか)えるのだ。」そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣(じん)をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負(しょうぶ)をしよう。」サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈(いきしょうちん)し、非常(ひじょう)に恐(おそ)れた。

(サムエル記第一17章1-11節)

<説教>

イスラエル人は宿敵(しゅくてき)ぺリシテ人との戦(たたか)いに苦(くる)しんでいました。谷をはさんでお互いに緊迫(きんぱく)状態(じょうたい)でした。そこでぺリシテからは3メートルもある巨人(きょじん)でベテランの戦士(せんし)ゴリヤテがイスラエルに一対一の戦(たたか)いを申(もう)し出(で)ます。イスラエル人はゴリヤテの巨体(きょたい)や武器(ぶき)を見て、恐(おそ)れて戦(たたか)う勇気(ゆうき)を失(うしな)ってしまいます。そんな時、8人兄弟の末(すえ)っ子(こ)の若(わか)い羊飼(ひつじか)いダビデがゴリヤテを石一つで打(う)ち殺(ころ)したのです。

戦士(せんし)でもない若(わか)い羊飼(ひつじか)いダビデがなぜゴリヤテに勝利(しょうり)したのでしょうか。

① ダビデは恐(おそ)れに支配(しはい)されなかった

ゴリヤテは自分の巨体(きょたい)と武器(ぶき)を見せつけて、おどし文句(もんく)を言ってイスラエル人を恐(おそ)れさせました。戦(たたか)う時に恐(おそ)れは最大の敵(てき)です。多くの場合、戦(たたか)う前の心理戦(しんりせん)で勝敗(しょうはい)は決定します。

聖書(せいしょ)に中に「恐(おそ)れるな」という命令(めいれい)は約365回出ています。それだけ人は恐(おそ)れてしまうものなのです。

しかし、ダビデはゴリヤテを自分と比較(ひかく)せずに全能(ぜんのう)の神さまと比較(ひかく)したのです。すべてを支配(しはい)される神さまと比べたらゴリヤテは取(と)るに足(た)りない小さい者です。

見える状況(じょうきょう)ではなく神さまに信頼(しんらい)するとき信仰(しんこう)と大胆(だいたん)さが与(あた)えられます。

② ダビデは普段(ふだん)の生活の中で神さまに仕(つか)えていた

ダビデは普段(ふだん)から神さまと共に羊飼(ひつじか)いの仕事に仕(つか)えていました。羊(ひつじ)をライオンや熊(くま)に襲(おそ)われたときも、神さまが共におられ信仰(しんこう)と勇気(ゆうき)により戦(たたか)っていました。

ダビデは、普段(ふだん)からみことばを想(おも)いめぐらし、祈(いの)り、賛美(さんび)して神さまと共にいました。

ダビデはいきなりゴリヤテに勝利(しょうり)したのではありません。ダビデはどんな時も神さまに仕(つか)えて、信仰(しんこう)と勇気(ゆうき)が与(あた)えられ、普段(ふだん)の生活の中で訓練(くんれん)され下地(したじ)が作られていたのです。

羊飼(ひつじか)いは決してきれいな仕事では、末っ子のダビデは父からまったく注目(ちゅうもく)されていませんでした。しかし、神さまのご計画(けいかく)は誰(だれ)も知らないところで準備(じゅんび)されていました。目立たない普段(ふだん)の何気(なにげ)ないところでの神さまとの関わりがやがて、目に見える形となって現(あらわ)されるのです。

③ ダビデは神さまが勝利(しょうり)を与(あた)えてくださることを知っていた

ダビデは勝利(しょうり)の秘訣(ひけつ)を知ってしました。神さまに忠実(ちゅうじつ)であるなら、あとは神さまが必(かなら)ず助(たす)けて導(みちび)いてくださいます。

ダビデはたった一つの石で巨人ゴリヤテを打(う)ち倒(たお)しました。しかしダビデの本当の武器(ぶき)は万軍(ばんぐん)の主(しゅ)の御名(みな)(生けて働かれる神の力)です。すべての戦(たたか)いに勝利(しょうり)をもたらすのは万軍(ばんぐん)の主(しゅ)の御名(みな)です。神さまご自身が戦(たたか)いに出て挑(いど)まれるのです。

石とはメシヤ(キリスト)の象徴(しょうちょう)です。この石(キリスト)が巨人(悪魔(あくま))を打(う)ち倒(たお)すのです。

悪魔(あくま)はキリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりにより、完全に打(う)ち倒(たお)されました。私たちがイエス様の御名(みな)で祈(いの)り、みことばを信じて従(したが)う時、悪魔(あくま)は何も手を出すことは出来ません。

私たちの戦(たたか)いとは、剣(つるぎ)や盾(たて)によるのではなく、人間の内にあります。罪(つみ)に対して神のことばと信仰(しんこう)によって戦(たたか)いに勝利(しょうり)できるのです。

ダビデの勝利(しょうり)によって、イスラエルに神さまがおられることをすべての国に知らしめました。

今もキリスト者は信仰(しんこう)によって罪(つみ)に勝利(しょうり)して、世(よ)にイエス・キリストを証(あかし)するのです。

なぜなら、神によって生まれた者はみな、世(よ)に勝つからです。私たちの信仰(しんこう)、これこそ、世(よ)に打(う)ち勝った勝利(しょうり)です。世(よ)に勝つ者とはだれでしょう。

イエスを神の御子(みこ)と信じる者ではありませんか。

(ヨハネの手紙第一5:4-5)