十字架の上の王、救い主キリストを見よ

マルコの福音書10章22-41節より

2020年6月27日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

血まみれのイエスは裸で十字架に付けられ、人々は無力なイエスの姿をあざけり、ののしります。罪状書きは「ユダヤの王」。

やがて全地は暗くなり、暗黒の罪の死の力がイエスを襲います。全人類の罪を身代わりを受けたイエスは父なる神との関係が絶たれ「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びます。しかし、そのまま死ぬのではなくご自身を罪のために捧げられ、「テテレスタイ(完了した)」と勝利の叫びをされ、ご自身の命である霊を父に渡されます。その時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けます。

家族に愛の関係があるなら子どもは悪の道に入りません。人は自分を愛してくれる場所が必要なのです。自分を認めてくれる場所を探すのです。それがたとえ悪とわかっていても。大切な関係から離れて罪に陥るのです。捧げられたイエスの肉体を通して神への生きた道が私たちに開かれたのです。あなたはイエスを通して神との関係が回復します。神があなたを愛して、あなたを認めてくださいます。

愛する人々や弟子たちから捨てられても、イエスに付き従った女性たちは最後まで十字架の証人となりました。彼女たちがイエスを愛していたからです。

幾度も十字架刑に立ち会ったローマの百人隊長は、イエスの刑が惨めに死に敗北していく今までの死刑囚と違うことに気付きます。十字架で死んでいくイエスに威厳と命があったのです。彼は「この方はまことに神の子であった」と告白します。

王と呼ばれる者は、戴冠式(たいかんしき)で王の冠を与えられる。その式は華やかで荘厳で格調高い。各国の王たち、ナポレオン、ジャンヌダルク…

神から遣わされたイエスは油注がれた、永遠の天の御国の王。罪人を新しく生まれさせる力ある救い主。十字架こそが主イエス・キリストの戴冠式(たいかんしき)であることを見出す者は幸いです。

昔から多くの芸術家たちは「十字架のキリスト」を作品のモチーフにしてきました。美術、彫刻、音楽、演劇など。人間は最高のモチーフに出会ったとき、魂が揺り動かされ、情熱が与えられ、最高の作品を生み出します。最高の人生が与えられるのです。

美術館で「エッケ・ホモ(見よ。この方だ)」という題のついた十字架のキリストの絵画を見た人物は、その絵に釘付けになり動けなくなりました。その絵の説明には次のように書かれていました。

「わたしはあなたのために命を捨てた。あなたは、わたしのために何をしたか」。その人物のその後の人生が変えられたのはいうまでもありません。

どんな時も、十字架に付けられたキリストを見続けましょう。

罪と誇りを捨ててキリストの十字架を負う

マルコの福音書15章16-21節より

2021年6月20日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスは十字架に付けられる前にむち打たれ、ローマの兵隊から暴力を受け、からかわれ、辱めをうけます。最も尊敬されるべき神様が、最も残酷な十字架で罪人として扱われ、殺されたのです。血まみれで傷だらけのお姿は誰もが顔をそむけるようでした。

人間は人前で恥をかくことを嫌います。恐れます。それは弱さやコンプレックスをからかわれたり、存在を無視されたり、勝負に負けることかも知れません。

いい暮らし、いい学校、いい会社をめざすのも、恥ずかしい生き方をしないためです。

しかし、恥ずかしいという思いは外見のことではなく、人間の内面から来ています。最初の人アダムが神に背いた時に、神から離れた罪深い恥ずかしい自分の姿を知ったことが原因です。彼はいちじくの葉を腰につけ、それを隠しました。

すべての人はいろんなプライドによって恥を隠そうとしたのです。しかし、それは問題の解決ではありません。恥は罪の負い目から来ています。罪を犯した神を恐れて隠れたことが原因です。その罪の解決のためにキリストは十字架で死んでくださいました。人には言えないどんな恥ずかしい姿もキリストはご存知で、そのありのままの自分を受け入れてくださっています。キリストに赦された自分を受け入れることによって、はじめて自分を愛するができるのです。ありのままの自分を生きていくことができるのです。

クレネ人シモンは、十字架に向かわれるキリストに出くわし、無理やりキリストの十字架を負わされます。なんということだと最初は嘆いたことでしょう。しかし、血まみれで傷ついて、耐えられるキリストのお姿を見ているうちに、重い十字架を背負わされている自分の苦しみよりも、キリストがまことの救い主であることを信じたことでしょう。人前で十字架を背負わされた恥ずかしい自分からキリストへと心が変えられたのです。

キリストの十字架はすべての人の罪の赦しです。その神の働きをクレネ人シモンは手伝うことができたのです。キリストの苦しみをわずかでも味わい、キリストの重荷を助けることができたのです。十字架がシモンとキリストをつなげてひとつにしたのです。

無視されたり、誰かに打ち負かされたり、プライドを傷つけられることがあっても、あなたのために十字架で苦しまれたキリストは、あなたのために満足され喜んだお姿だったのです。キリストはあなたが信じて救われることを心から願っているのです。キリストはあなたを愛されています。

「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

(ペテロの手紙第Ⅰ2章20-25節)

完全な正しさの基準は人間ではなく神にある

マルコの福音書15章1-15節より

2021年6月13日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人間の本質が正しいと考えるのはあまりにも楽観的すぎます。警察、法律を犯す者への罪の刑罰によって、現在の平和は守られていることも忘れてはいけません。聖書によるとすべての人間は罪人として生まれてきます。人間の中には絶対的な正しさはないのです。裁判でどれだけ時間をかけても正しい判決をくだすことが出来るとは限りません。2000年前にユダヤで開かれたイエスを訴えた裁判では、イエスをまことの神とは認めず、かえって神の名を汚したとして十字架刑が言い渡されました。わずか半日で判決が言い渡されました。

まことの神を恐れる心こそが、真実を告白する正しい生き方です。人間は神に造られた被造物です。神こそが人間の正しさの基準なのです。人を殺してはならないと神は十戒を通して命令しています。すべての人間はやがて来る終わりの日に最後の審判を受けます。あなたの人生のすべての行い、言葉、心の中のすべてを神はさばかれます。

偽証による不当な裁判によりイエスは十字架で死刑に定められます。イエスの十字架の苦しみの中に人間のおそるべき罪深さが現されています。神であるイエスが死んでくださる以外に人間の罪は赦されないのです。正しさも罪の赦しも人間の中にはありません。あなたの罪の救い主としてイエスを信じることを、神は聖書を通してあなたに教えています。

人殺しのバラバの命を助けるためにイエスは十字架で身代わりになりました。イエスは罪人を救い出すために死んでくださいました。罪人とはバラバであり、またあなたのことです。神に対して罪ある者として生まれ、罪人として生きてきたあなたの罪を赦すために、イエスはあなたの身代わりに罪の刑罰を受けられました。イエスを信じる者は罪赦され、イエスの命を受けて新しく生きることができます。その新しい命はイエスを模範として正しく生きる力です。

本当のあなたのことを一番知っているのは誰ですか

マルコの福音書14章65-72節

2021年6月6日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

あなたは自分のことをどれくらい知っていますか。人は次の3通りの自分として知られています。①あなたが知っている自分②ほかの人から見た自分③神様から見た自分

イエスの弟子のペテロは、どんなことあってもイエスに従ってお供できると自信を持っていました。自分の力、経験や感覚でやっていけると信じていました。

イエスが十字架で死なれるとしても、あなたを知らないなど決して言わないと自信をもって言いました。しかし、イエスは逮捕され、死刑にするための不公平な裁判にかけられ、群衆に囲まれリンチを受け、圧倒的に不利な状況になります。イエスの仲間と知られると逮捕され、殺される可能性もありました。

そんな中、ペテロはイエスを知らないと3度言い終わらないうちに鶏が鳴きます。イエスが「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われた言葉を思い出します。その時ペテロは自分の本当の姿を知ったのです。言葉だけで行いのない自分の信仰を知るのです。イエスを信じる信仰は頭の知識や努力ではなく、生きた経験なのです。失敗も敗北も惨めな経験もすべてが信仰生活であらわにされていいのです。そんな罪深い自分だからこそイエスが必要なのです。

ペテロはイエスと一緒に死ぬつもりでした。しかし、人は誰も神様のために死ぬことはできないのです。なぜなら、すべての人は神様に対して罪を犯して、死んだものだからです。ペテロのように自分を許せずに後悔して泣くだけではだめなのです。神様に対して罪を犯したこと心から悲しまなければならないのです。神様のことを信じられないという人は、本当の自分の罪深さを知らないからです。

人間は罪により、誰かを傷つけ、また誰かに傷付けられています。それは、人間が神様を傷つけることにより、自分自身を傷つけているからなのです。

イエスはあなたのすべてをご存知なので、あなたが罪を犯してしまった、どうしようもない理由もご存知です。あなたが神様は自分のことをすべてご存知であると信じた時、あなたの罪は赦されます。また、あなたの傷も癒されます。

仲の良い人間関係が壊れて無視し合うことほど悲しく不幸なことはありません。それは時に死ぬことよりも苦しいことです。事実、聖書は神様と人間の関係が壊れたことを罪と言います。人間の犯した罪は死んでも後も永遠に赦されません。しかし、キリストがあなたの罪の身代わりに十字架で死んでくださったことを信じるなら、あなたは永遠に続く罪の刑罰を赦され、永遠の命を受けます。

ペテロに罪の赦しを与えるために、イエスは三日目によみがえられました。「主よ、あなたは一切のことをご存知です。」とペテロと同じように告白する者は幸いです。