キリストの十字架による贖いの代価

マルコの福音書10章35-52節より

2020年12月27日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスの十字架が近づいています。しかし弟子たちは、自分のことしか考えられません。彼らは天国でも、人より優位になりたいと考えていました。ヤコブとヨハネはすべてを捨ててイエスに従いましたが、今は自分の名誉を求めています。

この世では人の上に立って権力をもつ者が偉いとされます。しかし、実際に手や足となり、汗して働き、人と関わり、自分を犠牲にして、仕えるものが真の働きをします。イエスが求める人の上に立つ者とは、自分以上に誰かを生かすことです。仕えて人の役に立つしもべです。

イエスは待ち望んだメシヤ(救い主)でした。しかし、イエスは十字架で死のうとされていました。弟子たちにとって、この二つは矛盾していました。十字架が理解できませんでした。十字架は仕えるしもべとしての完成であり目的でした。

贖いの代価とは奴隷の身代金のことです。罪の奴隷である人間を解放して、神のものとするために、イエスは人間の身代わりとなり、罪の刑罰を受けられたのです。イエスは十字架で父なる神様の怒りを受け、捨てられたのです。しかし、イエスは弟子たちを愛し受け入れられます。弟子たちは何もわからなくても、イエスについていくならば、必ず栄光のゴールが待っていることだけはわかっていました。

十字架が理解できなくても、また、精神的にキリストを受け入れられないことも関係ありません。人間は十字架で死なれた敗北者のキリストではなく、勇ましくかっこいい神様を受け入れたいのです。

しかし、本当の理由はどうしても離れられない罪が原因です。あなたの悪習慣や過去の大きな過ちかも知れません。しかし、罪とは神に背を向けて、神を無視して、自分の欲のまま生きることなのです。

キリストを信じることは信頼することです。あなたは幽霊を信じていても信頼することはないでしょう。

あなたが心から願うことは何ですか。そのために、神様に何をしてもらいたいですか。はっきり言えることは、キリストが恥と責めを受け死なれた十字架の救いを受け取ること以外には神様に求めることはないのです。

キリストは十字架を同情してもらいたいのではありません。あなたがキリストを信じて、救われ、喜ぶことを、何よりもご自身の喜びとして満足して自らすすんで十字架をしのばれたのです。

アーメン。

キリストによる家族の回復

マルコの福音書10章28-34節より

2020年12月13日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様がメシヤ(救い主)であるという福音を語ることは、当時のユダヤでは迫害の危険をともなうことでした。今の日本では福音を伝えて迫害を受けることはないかも知れませんが、命に関わる危険な国もあります。しかし、日本でもキリスト教を信じて、日曜日に教会へ行くことを家族は反対するかも知れません。

正しくはキリスト教と言う言葉はなく、キリストとの関係に新しく生きることです。キリストを信じるならば、あなたは新しい家族の一員とされるのです。。

教会は神の家族です。キリストを信じて救われた者はみんな家族なのです。人間は神様により命と生きる目的が与えられました。神様は父なるお方であり、私たちは神様の子どもなのです。そして神様が人を結び合わせて家族を与えられるのです。地上の家族は、天の家族をこの地上で実現するために与えられているのです。

神様は家族がイエス様を信じて、神の関係と家族の関係の回復が救われることを願っておられます。

今、世界中で人間関係が乱れ、学校崩壊や家庭崩壊が当たり前のように起こっています。それはすべての人が生まれもっている罪によるのです。また世界が罪に満ちているためです。罪により人間は自己中心になり、家族にも心を素直に開けず、本来の健全な関係が難しくなっています。

十戒の中にあなたの父母を敬いなさいとあります。人間関係の基本は家族です。親子、兄弟です。人間関係の基本は会話です。挨拶です。家族でお互いに顔を見て、笑顔で明るく挨拶ができていますか。簡単そうで実はとても大切なことなのです。そこから、となり近所、地域社会、学校、職場と広がっていきます。

聖書はさらに大切な関係、神様を敬いなさいとあります。まことの家族関係の回復のために、家族が愛し合いひとつとされるためにはキリストを受け入れ罪から救われることが必要です。

イエス様も家族から理解されず、人間の罪を救うために十字架に架かられました。しかし復活され、イエス様の兄弟たちも救われ、まことの家族とされました。

キリストを信じることは遠回りに感じるかも知れませんが、家族が救い主キリストを受け入れることが本来の家族の関係の回復にいたる唯一の道なのです。 アーメン

お金で買えないもの

マルコの福音書10章23-27節より

2020年12月6日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様は裕福な者が神の国に入ることは難しいと言われました。この言葉は弟子たちを大変驚かせる言葉でした。ユダヤの国では富みは神様からの祝福と考えられていたからです。財産は人格がすぐれており、神さまに愛されていることの証明でした。そのような神様の祝福をいただいた人たちが救われないのなら、一体誰か救われるのかと考えたのです。

お金や財産、物質に依存して満足するなら、神さまに完全に信頼して、満たされることが妨げられやすいのです。自分自身と財産に頼る者は決して救われることがありません。しかし、神の救いの力、罪から救い出してくださるキリストの十字架を信頼する者は自由に救いに入ることができるのです。

お金があれば、この世界のほとんどすべてのものは手に入るかもしれません。しかし次のような言葉があります。

心地よいベッドは買えるが、安眠は買えない

食物は買えるが、食欲は買えない

家は買えるが、家庭は買えない

薬は買えるが、健康は買えない

楽しみは買えるが、幸福は買えない

また、富や財産は我々の未来を保障するものではありません。しかし完全に人間の未来を保証する道がひとつだけあります。それは信仰です。キリストを信じることによって与えられる神の永遠の救いです。救いはお金では絶対に買うことができません。救いは神様からのプレゼント、つまり無料です。しかし、その救いは決して値段のない安っぽいものではありません。反対に値段がつけられないほど尊いものです。神であられるキリストが十字架で自分のきよい命をあなたのために差し出されたのです。人間は決して自分を救うことができません。神のみが人間を救うことができるのです。

この救いは信仰により受け取ることができる宝物です。キリストを罪からの救い主としてお迎えしましょう。

アーメン。