最も小さき者が、偉大な存在につながるなら

コリント人への手紙第一1章26-31節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月23日

<聖書>

兄弟(きょうだい)たち、あなたがたの召(め)しのことを考えてごらんなさい。この世(よ)の知者(ちしゃ)は多くはなく、権力者(けんりょくしゃ)も多くはなく、身分(みぶん)の高い者も多くはありません。しかし神(かみ)は、知恵(ちえ)ある者をはずかしめるために、この世(よ)の愚(おろ)かな者を選(えら)び、強(つよ)い者をはずかしめるために、この世(よ)の弱(よわ)い者を選(えら)ばれたのです。また、この世(よ)の取(と)るに足(た)りない者や見下(みくだ)されている者を、神(かみ)は選(えら)ばれました。すなわち、有(あ)るものをない者のようにするため、無(む)に等(ひと)しいものを選(えら)ばれたのです。これは、神(かみ)の御前(みまえ)でだれをも誇(ほこ)らせないためです。しかしあなたがたは、神(かみ)によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神(かみ)の知恵(ちえ)となり、また、義(ぎ)と聖(きよ)めと、贖(あがな)いとになられました。まさしく、「誇(ほこ)る者は主(しゅ)を誇(ほこ)れ」と書いてあるとおりになるためです。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)1章26-31節)

<説教>

神(かみ)はこの世(よ)では価値(かち)のないような者を選(えら)んで、信仰(しんこう)を与(あた)えられます。イエスを信(しん)じた者は取(しゅ)税人(ぜいにん)や遊女(ゆうじょ)のような罪人(つみびと)でした。天国で一番偉(えら)い者とは、幼(おさな)い子どもだとイエスは言われました。

この世(よ)と天国では価値観(かちかん)はまったく違(ちが)うのです。自分が無力(むりょく)で価値(かち)のない者とする者が、天国に入ることができます。それは自分を低(ひく)くして、弱(よわ)い者を受(う)け入れるへりくだった者です。

神(かみ)は自分の価値(かち)を世(よ)の中にアピールする者ではなく、小さな弱(よわ)き者を用いて、神(かみ)の存在(そんざい)を現(あらわ)されるのです。

人間はいつ、自分がちっぽけであると知るのでしょうか。宇宙(うちゅう)の広(ひろ)さと比(くら)べるときでしょうか。愛(あい)する人を守(まも)れないときかも知れません。しかし人は罪深(つみぶか)い自分の姿(すがた)を見たとき、自分の小ささを知ります。無(む)に等(ひと)しいような自分に絶望(ぜつぼう)します。罪(つみ)とは神(かみ)から離(はな)れて自分を損(そこ)ない失(うしな)っている状態(じょうたい)のことです。神(かみ)の前にすべての人は罪人(つみびと)です。神(かみ)の前に自分の小ささを知(し)る者は幸(さいわ)いです。

神(かみ)に造(つく)られた人間は有限(ゆうげん)である被造物(ひぞうぶつ)です。有限(ゆうげん)ですから、不完全(ふかんぜん)で誤(あやま)りがあり、誘惑(ゆうわく)に弱(よわ)く、失敗(しっぱい)もします。しかし聖書(せいしょ)は、そうであっても、あなたはあなたでいいのだと教(おし)えてくれます。それを隠(かく)したり、諦(あきら)めたり、無理(むり)に大きく見せようとしないでいいのです。

自分の罪深(つみぶか)さ、汚(けが)れ、弱(よわ)さを認(みと)めていいのです。自分には何の価値(かち)もなくていいのです。人間はそれを認(みと)められず、また恐(おそ)ろしくもありましょう。それは決(けっ)して人生(じんせい)の敗北(はいぼく)ではないのです。かえって勝利(しょうり)の人生(じんせい)のスタートです。

誰(だれ)よりも、自分を小さく、貧(まず)しく、むなしくしてくださった方がおられます。神(かみ)のイエス・キリストです。

最(もっと)も偉大(いだい)な存在(そんざい)である神(かみ)はすべての所有者(しょゆうしゃ)で、宇宙(うちゅう)と世界(せかい)と歴史(れきし)と命(いのち)を支配(しはい)しておられます。そのすべてに豊(ゆた)かな神(かみ)が、もっとも小さい者の姿(すがた)になられたのです。神(かみ)であるキリストが人間の罪(つみ)のために人となって十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。あなたの罪(つみ)の身代(みが)わりの犠牲(ぎせい)となられました。あなたに愛(あい)を示(しめ)してくださいました。

キリストは神(かみ)の御姿(みすがた)である方(かた)なのに、神(かみ)のあり方(かた)を捨(す)てられないとは考(かんが)えず、ご自分(じぶん)を無(む)にして、仕(つか)える者(しゃ)の姿(すがた)をとり、人間と同(おな)じようになられました。人としての性質(せいしつ)をもって現(あらわ)れ、自分(じぶん)を卑(いや)しくし、死(し)にまで従(したが)い、実(じつ)に十字架(じゅうじか)の死(し)にまでも従(したが)われました。          (ピリ2:6-8)

あなたは、取(と)るに足(た)りないさき者です。しかし大切(たいせつ)なことは最(もっと)も偉大(いだい)な神(かみ)につながることが出来(でき)るということです。自分の罪(つみ)を神(かみ)の前に正直(しょうじき)に言(い)い表(あらわ)すならすべての罪(つみ)は赦(ゆる)されます。このとき、小さい人間が偉大(いだい)な神(かみ)とひとつとされる人の理解(りかい)を超(こ)える奇跡(きせき)が起(お)こります。そのとき無(む)に等(ひと)しい者が、永遠(えいえん)に価値(かち)ある者に変(か)えられます。

これからは罪(つみ)に背(せ)を向(む)け、神(かみ)に向(む)いて生きるのです。イエス・キリストを通して、神(かみ)さまの大きな愛(あい)と恵(めぐ)みを受(う)けて、いつもあなたは、しっかりと存在(そんざい)して、自分の価値(かち)を喜(よろこ)んで生きるのです。

あなたの指(ゆび)のわざである天(てん)を見(み)、あなたが整(ととの)えられた月(つき)や星(ほし)を見(み)ますのに、人とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを心(こころ)に留(と)められるとは。人(ひと)の子(こ)とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを顧(かえり)みられるとは。あなたは、人(ひと)を、神(かみ)よりいくらか劣(おと)るものとし、これに栄光(えいこう)と誉(ほま)れの冠(かんむり)をかぶらせました。

(詩篇(しへん)8:3-5)

かつて、天(てん)の無数(むすう)の星(ほし)を見上(みあ)げては
私(わたし)は誰(だれ)にも知(し)られることのない
いてもいなくてもよい小(ちい)さい存在(そんざい)だと
言(い)い聞(き)かせていた。
しかし今(いま)は、小(ちい)さい無(む)のような私(わたし)を
完全(かんぜん)に知(し)ってくださる方(かた)がいることを信(しん)じている。
私(わたし)の存在(そんざい)を覚(おぼ)えて、愛(あい)して下(くだ)さるお方(かた)を。
それは星(ほし)を造(つく)られ、私を造(つく)られたお方(かた)。
十字架(じゅうじか)で私(わたし)のために死(し)なれたキリスト。
(作者不詳)

十字架は神の愛と命のメッセージ

コリント人への手紙第一1章18-25節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月16日

<聖書>

十字架(じゅうじか)のことばは、滅(ほろ)びに至(いた)る人々には愚(おろ)かであっても、救(すく)いを受(う)ける私たちには、神(かみ)の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵(ちえ)ある者の知恵(ちえ)を滅(ほろ)ぼし、賢(かしこ)い者の賢(かしこ)さをむなしくする。」知者(ちしゃ)はどこにいるのですか。学者(がくしゃ)はどこにいるのですか。この世(よ)の議論家(ぎろんいえ)はどこにいるのですか。神(かみ)は、この世(よ)の知恵(ちえ)を愚(おろ)かなものにされたではありませんか。事実、この世(よ)が自分の知恵(ちえ)によって神(かみ)を知ることがないのは、神(かみ)の知恵(ちえ)によるのです。それゆえ、神(かみ)はみこころによって、宣教(せんきょう)のことばの愚(おろ)かさを通(とお)して、信(しん)じる者を救(すく)おうと定(さだ)められたのです。ユダヤ人はしるしを要求(ようきゅう)し、ギリシヤ人は知恵(ちえ)を追求(ついきゅう)します。しかし、私たちは十字架(じゅうじか)につけられたキリストを宣(の)べ伝(つた)えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人(いほうじん)にとっては愚(おろ)かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召(め)された者にとっては、キリストは神(かみ)の力、神(かみ)の知恵(ちえ)なのです。なぜなら、神(かみ)の愚(おろ)かさは人よりも賢(かしこ)く、神(かみ)の弱(よわ)さは人よりも強(つよ)いからです。

(コリント人への手紙第一1章18-25節)

<説教>

十字架(じゅうじか)刑(けい)とは、裸(はだか)で手首(てくび)と足首(あしくび)を約15センチのくぎで木に打ち付けられ、激痛(げきつう)と出血(しゅっけつ)多量(たりょう)と呼吸(こきゅう)困難(こんなん)の末(すえ)に心臓(しんぞう)破裂(はれつ)で死(し)に至(いた)ります。その期間(きかん)は数日(すうじつ)から一週間(いっしゅうかん)以上(いじょう)と言われます。人々の前で辱(はずかし)められ、人間の尊厳(そんげん)を奪(うば)われる残酷(ざんこく)な死刑(しけい)の方法(ほうほう)です。

イエスは神(かみ)を名のった刑罰(けいばつ)で、むち打たれ、十字架(じゅうじか)刑(けい)により処刑(しょけい)されました。救(すく)い主(ぬし)キリストを待(ま)ち望(のぞ)んでいたユダヤ人にとって、あざけられ、悲惨(ひさん)で弱々(よわよわ)しい死(し)に方をしたイエスが神(かみ)の救(すく)い主(ぬし)キリストであるとは絶対(ぜったい)に信(しん)じられませんでした。

ギリシャ人にとっても神(かみ)とは人間とはかけ離(はな)れた崇高(すうこう)な存在(そんざい)でした。人間としてこの世(よ)に来られ、よりによって汚(けが)らわしい十字架(じゅうじか)と関(かか)わる者であるなど考えられませんでした。キリストが人間イエスとして誕生(たんじょう)したことも死(し)んで三日後の復活(ふっかつ)も愚(おろ)かな話でした。

今もキリストの十字架(じゅうじか)の話を聞くと、いやな思いを持(も)つ人がいます。暗(くら)い不吉(ふきつ)な話に思うかも知(し)れません。あなたの罪(つみ)やけがれの身代(みが)わりにキリストは十字架(じゅうじか)で死(し)なれたことは、ばかげていると思うかもしれません。

人間の罪(つみ)とはとんでもなく邪悪(じゃあく)な状態で生きていることを言うのではありません。人間が自分の力では決(けっ)して罪(つみ)の現実(げんじつ)から救(すく)い出されない姿(すがた)を言っているのです。

人は自分の知恵(ちえ)によって神(かみ)のことはわかりません。それが神(かみ)の知恵(ちえ)だと聖書(せいしょ)は言います。そうです。キリストの十字架(じゅうじか)を信(しん)じるなら罪(つみ)深(ぶか)い生き方から救(すく)われるということは人間の努力(どりょく)では決(けっ)してわからないのです。

十字架(じゅうじか)は人間の罪(つみ)の赦(ゆる)しをあらわすにふさわしいシンボルです。

十字架(じゅうじか)はあなたの罪(つみ)を表(あら)わしています。同時(どうじ)に十字架(じゅうじか)はあなたの罪(つみ)の赦(ゆる)しをあらわしています。

また十字架(じゅうじか)はあなたの罪(つみ)の刑罰(けいばつ)をあらわしており、同時(どうじ)にその刑罰(けいばつ)を身代(みが)わりに受(う)けてくださる神(かみ)の愛(あい)をあらわすのです。

キリストの十字架(じゅうじか)によってしかあなたの罪(つみ)は赦(ゆる)されません。神(かみ)に対して犯(おか)した人間の罪(つみ)はそれほど重(おも)いものなのです。罪(つみ)のない聖(きよ)いキリストの命(いのち)だけが人間の罪(つみ)の身代(みが)わりとなることができるのです。

このことをただ信(しん)じて受(う)け取(と)るなら、あなたは救(すく)われます。それ以外(いがい)の方法(ほうほう)はどこにもないのです。

十字架(じゅうじか)のことばは、滅(ほろ)びに至(いた)る人々(ひとびと)には愚(おろ)かであっても、
救(すく)いを受(う)ける私(わたし)たちには、神(かみ)の力です。(Ⅰコリント1:18)

そしてどうしてありえようか、私(わたし)が
救(すく)い主(ぬし)の血潮(ちしお)の益(えき)を得(え)るということが?
主(しゅ)の苦痛(くつう)を引(ひ)き起(お)こした私(わたし)のために死(し)なれたのか
主(しゅ)を死(し)に至(いた)るまで悩(なや)ました私(わたし)のために?
驚(おどろ)くべき愛(あい)!どうしてありえようか
わが神(かみ)よ、なんじがわがために死(し)にたもうということが
(チャールズ・ウェスレー、讃美歌230番「み神の恵みを」の原詞)

福音は信じる者に優しく働く

コリント人への手紙第一1章10-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月9日

<聖書>

さて、兄弟(きょうだい)たち。私は、私たちの主(しゅ)イエス・キリストの御名(みな)によって、あなたがたにお願(ねが)いします。どうか、みなが一致(いっち)して、仲間割(なかまわ)れすることなく、同じ心、同じ判断(はんだん)を完全(かんぜん)に保(たも)ってください。実(じつ)はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟(きょうだい)たち。あなたがたの間には争(あらそ)いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。キリストが分割(ぶんかつ)されたのですか。あなたがたのために十字架(じゅうじか)につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受(う)けたのはパウロの名によるのでしょうか。私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授(さず)けたことがないことを感謝(かんしゃ)しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受(う)けたと言われないようにするためでした。私はステパナの家族にもバプテスマを授(さず)けましたが、そのほかはだれにも授(さず)けた覚(おぼ)えはありません。キリストが私をお遣(つか)わしになったのは、バプテスマを授(さず)けさせるためではなく、福音(ふくいん)を宣(の)べ伝(つた)えさせるためです。それも、キリストの十字架(じゅうじか)がむなしくならないために、ことばの知恵(ちえ)によってはならないのです。

(コリント人への手紙第一1章10-17節)

<説教>

使徒(しと)パウロは福音(ふくいん)を世界に伝(つた)える者として神様(かみさま)に召(め)されました。福音(ふくいん)は人種(じんしゅ)、社会(しゃかい)、経済(けいざい)、教育(きょういく)の壁(かべ)を越(こ)えます。

私は福音(ふくいん)を恥(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信(しん)じるすべての人にとって、救(すく)いを得(え)させる神(かみ)の力です。(ローマ1:16)

福音(ふくいん)とは、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死が、あなたの罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりであると信(しん)じるなら罪(つみ)が赦されて神(かみ)の子どもとされるというよい知らせ(グッドニュース)です。

この世界にはまことの希望(きぼう)はありません。しかし教会(きょうかい)には唯一の救(すく)いの道、まことの希望(きぼう)の福音(ふくいん)があります。これは世にはないキリストの教会(きょうかい)だけがもっている希望(きぼう)です。

キリストが生まれる500年も前の黄金(おうごん)時代(じだい)のギリシャの哲学者(てつがくしゃ)は、人間にとってもっとも良いことは、生まれないことだと説(と)きました。もうずっと昔(むかし)に神(かみ)は死んだと言われて、それを人々は信(しん)じています。神(かみ)を捨(す)て去(さ)り、すべての善(ぜん)も真理(しんり)も人間にあるという思想(しそう)はおそるべき出口のない死の世界です。人間がサルから偶然(ぐうぜん)生まれたと唱(とな)える進化論(しんかろん)はすべての存在(そんざい)には意味(いみ)も目的(もくてき)も価値(かち)もない、すべてはむなしいという絶望(ぜつぼう)の虚無(きょむ)の人生に追(お)い込(こ)みます。

ジャンクフード(冷凍(れいとう)食品(しょくひん)、ファーストフード、インスタント食品など)はカロリーだけが高く栄養価(えいようか)はあまりありません。これを食べ続(つづ)けると体を害(がい)し、精神(せいしん)や心の成長(せいちょう)にも悪(わる)い影響(えいきょう)が出ると言われています。

この世の哲学(てつがく)、思想(しそう)はとても難(むずか)しく、喜(よろこ)びも希望(きぼう)もがなく、たんに頭の知識(ちしき)、理論(りろん)であり、霊(れい)的(てき)に成長(せいちょう)することはできません。

しかし、福音(ふくいん)~イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の救(すく)いは、聞く者の心とからだにやさしく、希望(きぼう)を与(あた)えるよい知らせです。子どもでも理解(りかい)して信(しん)じて救(すく)われるのです。国も年齢(ねんれい)も習慣(しゅうかん)も関係(かんけい)なく、どんな人生であったとしても、いかなる境遇(きょうぐう)にある人にも、求(もと)める人の心に福音(ふくいん)は届(とど)きます。誰(だれ)であっても信(しん)じるなら救(すく)われます。

兄弟(きょうだい)たち。私は今、あなたがたに福音(ふくいん)を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣(の)べ伝(つた)えたもので、あなたがたが受(う)け入(い)れ、また、それによって立っている福音(ふくいん)です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信(しん)じたのでないなら、私の宣(の)べ伝(つた)えたこの福音(ふくいん)のことばをしっかりと保(たも)っていれば、この福音(ふくいん)によって救(すく)われるのです。私があなたがたに最(もっと)もたいせつなこととして伝(つた)えたのは、私も受(う)けたことであって、次のことです。キリストは、聖書(せいしょ)の示すとおりに、私たちの罪(つみ)のために死なれたこと、また、葬(ほうむ)られたこと、また、聖書(せいしょ)の示すとおりに、三日目(みっかめ)によみがえられたこと、           (Ⅰコリント15:1-4)

これが聖書(せいしょ)にある福音(ふくいん)です。福音(ふくいん)は、知識(ちしき)や理論(りろん)でなく、実際(じっさい)にあなたに関わるよい知らせです。それを信(しん)じた者には希望(きぼう)と平安(へいあん)が現実(げんじつ)のものとなります。キリストはあなたの罪(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死なれました。すべての人(あなたも含まれる)がよみがえる、その最初(さいしょ)(初穂(はつほ))としてキリストは三日目(みっかめ)によみがえられました。死後(しご)にすべての人は神(かみ)のさばきを受(う)けますが、あなたが、この福音(ふくいん)にどう答(こた)えて生きたかによって神(かみ)の子どもとされるか、そうでないかが決定(けってい)します。

神(かみ)は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者(ししゃ)の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望(のぞ)みを持(も)つようにしてくださいました。(Ⅰペテロ1:3)

自分の言葉(ことば)や行(おこな)いのいかなることも、福音(ふくいん)をさえぎることがないようにすることがパウロの哲学(てつがく)であり思想(しそう)でした。キリストを信(しん)じた者はこの福音(ふくいん)をそのように宝(たから)のように愛(あい)する者です。あなたもイエス様の福音(ふくいん)を信(しん)じてみませんか。

シジフォスは死んで黄泉(よみ)に行った。ところが地上に戻(もど)されたのであった。黄泉(よみ)に呼(よ)び返(かえ)されたとき、彼は帰(かえ)ることを拒(こば)んだ。人生の快楽(かいらく)を満喫(まんきつ)したからである。罰(ばつ)として彼は連(つ)れ戻(もど)され、丘(おか)のいただきまで大きな岩(いわ)を押(お)し上げる刑(けい)を宣告(せんこく)された。しかし岩(いわ)をそこまで押(お)し上げると、転(ころ)げ落(お)ちてしまう。彼はふもとまで苦労(くろう)して降(お)りていき、もう一度岩(いわ)を押(お)し上げるが、再(ふたた)び転(ころ)げ落(お)ちるだけであった。
『シジフォスの神話(しんわ)』アルベール・カミュ

シジフォスはこの工程(こうてい)を果(は)てしなく繰(く)り返(かえ)すように運(うん)命(めい)づけられた。

彼の努力(どりょく)は、意味(いみ)ある結果(けっか)をまったく生(う)み出さない。

存在(そんざい)するものに意味(いみ)も目的(もくてき)も価値(かち)もないという実存(じつぞん)主義(しゅぎ)、虚無(きょむ)主義(しゅぎ)、神は死んだ思想(しそう)を代表(だいひょう)する文学(ぶんがく)の一つ。

わたしの行く手は平安(へいあん)だ。
死へのあらゆる働(はたら)きかけに対しても、ひそかなる守護(しゅご)がなされている。
すべての安定性(あんていせい)が失(うしな)われても、なお平安(へいあん)だ。たおされても平安(へいあん)だ。
たとえ、このあわれな肢体(したい)が滅んでも、なおまさって平安(へいあん)だ。
『平安(へいあん)』ルーパート・ブルック
たとえわたしが暗闇(くらやみ)の恐(おそ)ろしい雲海(うんかい)に入ったとしても、それはひと時だ。
わたしは神(かみ)の灯(ともしび)を胸(むね)に抱(だ)く。
その輝(かがや)きは早晩(そうばん)、暗闇(くらやみ)を貫(つらぬ)く。
わたしはいつしか脱出(だっしゅつ)する。
『パラサルサス』ブラウニング

イエス様の福音が与える平安をぜひあなたもお受けください。

キリストとの関係が、あなたを最後の日から守る

コリント人への手紙第一1章4-9節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月2日

<聖書>

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与(あた)えられた神(かみ)の恵(めぐ)みのゆえに、あなたがたのことをいつも神(かみ)に感謝(かんしゃ)しています。というのは、あなたがたは、ことばといい、知識(ちしき)といい、すべてにおいて、キリストにあって豊(ゆた)かな者(もの)とされたからです。それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確(たし)かになったからで、その結果(けっか)、あなたがたはどんな賜物(たまもの)にも欠(か)けるところがなく、また、熱心(ねっしん)に私たちの主(しゅ)イエス・キリストの現(あらわ)れを待(ま)っています。主(しゅ)も、あなたがたを、私たちの主(しゅ)イエス・キリストの日に責(せ)められるところのない者(もの)として、最後(さいご)まで堅(かた)く保(たも)ってくださいます。神(かみ)は真実(しんじつ)であり、その方(かた)のお召(め)しによって、あなたがたは神(かみ)の御子(みこ)、私たちの主(しゅ)イエス・キリストとの交(まじ)わりに入れられました。

(コリント人への手紙第一1章4-9節)

<説教>

キリストを信(しん)じて救(すく)われた者は、神(かみ)の計画(けいかく)によって召(め)されて(選(えら)ばれて呼(よ)び出されて)応答(おうとう)した者です。救(すく)いは聖霊(せいれい)の働(はたら)きによって始(はじ)まります。聖霊(せいれい)によってまず初(はじ)めに、自分の罪(つみ)を認(みと)め、キリストの十字架(じゅうじか)の救(すく)いがわかります。そして聖霊(せいれい)により、罪(つみ)の悔(く)い改(あらた)めに導(みちび)かれて、信仰(しんこう)が与(あた)えられます。

この瞬間(しゅんかん)に、義(ぎ)と認(みと)められ(罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の放免(ほうめん))、神(かみ)との和解(わかい)が与(あた)えられ、神(かみ)の子とされます。この救(すく)いの根底(こんてい)にあるのは、信(しん)じた者がキリストとひとつにされることです(キリストとの結合(けつごう))。キリストがあなたの中に生きて働(はたら)き、またあなたもキリストの中に入り、霊的(れいてき)、生命的(せいめいてき)な命(いのち)を共にします。別々(べつべつ)の人間だった夫婦(ふうふ)が肉体的(にくたいてき)にも精神的(せいしんてき)にもひとつされ、時間をかけて理解(りかい)し合い、理想(りそう)も一つとされるように、信者(しんじゃ)はキリストとすべての営(いとな)み(喜(よろこ)び、苦(くる)しみ、十字架(じゅうじか)、復活(ふっかつ))を共有(きょうゆう)していきます。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷(どれい)も自由人(じゆうじん)も、一つのからだとなるように、一つの御霊(みたま)によってバプテスマを受(う)け、そしてすべての者が一つの御霊(みたま)を飲(の)む者とされたからです。

(Ⅰコリント12:13)

キリスト者は聖霊(せいれい)により賜物(たまもの)(神(かみ)に仕(つか)えるために与(あた)えられる能力(のうりょく))が与(あた)えられ、キリストの体である教会(きょうかい)につながり、互(たが)いに仕(つか)えて、教会(きょうかい)を建(た)て上げ、聖霊(せいれい)のみわざにより、キリストに似(に)た者に変(か)えられていきます(聖化(せいか)・きよめ)。

それは、からだの中に分裂(ぶんれつ)がなく、各部分(かくぶぶん)が互(たが)いにいたわり合うためです。もし一つの部分(ぶぶん)が苦(くる)しめば、すべての部分(ぶぶん)がともに苦(くる)しみ、もし一つの部分(ぶぶん)が尊(たっと)ばれれば、すべての部分(ぶぶん)がともに喜(よろこ)ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官(かくきかん)なのです。

(Ⅰコリ12:25-27)

一度、キリストを信(しん)じて救(すく)われた者の救(すく)いは決(けっ)して失(うしな)われることはありません。信(しん)じた瞬間(しゅんかん)に神(かみ)の子とされた身分(みぶん)と立場(たちば)は永遠(えいえん)に変(か)わることがなく、聖霊(せいれい)により、そのような者としてふさわしい生き方に生涯(しょうがい)かけて変(か)えられ続(つづ)けます。

外面(がいめん)や表面(ひょうめん)でなく、すべてがキリストの似(に)姿(すがた)に作(つく)り変(か)えられていくのです。キリスト者は見える現実(げんじつ)はどうであっても、見えない希望(きぼう)の約束(やくそく)を聖書(せいしょ)により信(しん)じるのです。

あなたがたのうちに良(よ)い働(はたら)きを始(はじ)められた方(かた)は、キリスト・イエスの日が来(く)るまでにそれを完成(かんせい)させてくださることを私は堅(かた)く信(しん)じているのです。

(ピリピ1:6)

そして、地上(ちじょう)生活(せいかつ)が終(お)わる死(し)の後、神(かみ)の臨在(りんざい)の中に入るときに、神(かみ)の計画(けいかく)に始(はじ)まった救(すく)いは、完全(かんぜん)に完成(かんせい)します。あなたは完全(かんぜん)に神(かみ)の子となり、子が受(う)ける財産(ざいさん)を相続(そうぞく)します。その素晴(すば)らしさは今は、ぼんやりとしかわかりませんが、やがて完全(かんぜん)に知ることができます。神(かみ)によって始(はじ)まった救(すく)いのご計画(けいかく)は必(かなら)ず完成(かんせい)します。

けれども、私たちの国籍(こくせき)は天(てん)にあります。そこから主(しゅ)イエス・キリストが救(すく)い主(ぬし)としておいでになるのを、私たちは待(ま)ち望(のぞ)んでいます。キリストは、万物(ばんぶつ)をご自身(じしん)に従(したが)わせることのできる御力(みちから)によって、私たちの卑(いや)しいからだを、ご自身(じしん)の栄光(えいこう)のからだと同(おな)じ姿(すがた)に変(か)えてくださるのです。

(ピリピ3:21-22)

あなたにあって完全(かんぜん)! 私(わたし)のわざではなく。
親愛(しんあい)なる主(しゅ)よ、あなたの場所(ばしょ)をお取(と)りくださるように。
あなたの血潮(ちしお)が私(わたし)に赦(ゆる)しをもたらしました。
そして今やあなたにあって完全(かんぜん)な者です。
そうです、義(ぎ)とされている!祝福(しゅくふく)された思想(しそう)よ!
そして聖化(せいか)されている!救(すく)いがなされた!
あなたの血潮(ちしお)が私(わたし)に赦(ゆる)しをもたらしました、
そして栄化(えいか)される、私(わたし)も!

(ジェイムズ・M・グレイ)