イエス様は罪人の友

マタイの福音書9章9-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月31日

<聖書>

イエスは、そこを去(さ)って道(みち)を通(とお)りながら、収税所(しゅうぜいしょ)にすわっているマタイという人をご覧(らん)になって、「わたしについて来(き)なさい」と言(い)われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従(したが)った。
イエスが家で食事(しょくじ)の席(せき)に着(つ)いておられるとき、見よ、取(しゅ)税人(ぜいにん)や罪人(つみびと)が大ぜい来(き)て、イエスやその弟子(でし)たちといっしょに食卓(しょくたく)に着(つ)いていた。
すると、これを見たパリサイ人(びと)たちが、イエスの弟子(でし)たちに言(い)った。「なぜ、あなたがたの先生(せんせい)は、取(しゅ)税人(ぜいにん)や罪人(つみびと)といっしょに食事(しょくじ)をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言(い)われた。「医者(いしゃ)を必要(ひつよう)とするのは丈夫(じょうぶ)な者(もの)ではなく、病人(びょうにん)です。
『わたしはあわれみは好(この)むが、いけにえは好(この)まない』とはどういう意味(いみ)か、行って学(まな)んで来(き)なさい。わたしは正(ただ)しい人を招(まね)くためではなく、罪人(つみびと)を招(まね)くために来(き)たのです。」

(マタイの福音書9章9-13節)

<説教>

イエスは罪人(つみびと)の友です。罪人(つみびと)に呼(よ)びかけて、私について来なさいと言われます。マタイはイエスの呼(よ)びかけにすぐに、何もかも捨(す)てて従(したが)いました。

信仰(しんこう)とは神さまの言葉(聖書)を信(しん)じて応(こた)えることです。あなたの意志(いし)と決断(けつだん)です。神さまのことを理解(りかい)しようとするならいつまでも信仰(しんこう)に入ることはできません。今までの生き方を悔(く)い改(あらた)めて、神を信(しん)じることから新しく始(はじ)まるのです。信(しん)じるなら必(かなら)ず神様があなたを助(たす)け、道を開(ひら)いてくださいます。

イエスは彼らの信仰(しんこう)を見て、中風(ちゅうぶう)の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪(つみ)は赦(ゆる)された」と言われた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)9章2節)

イエスは病(やまい)を癒(いや)しました。またイエスは罪(つみ)を赦(ゆる)す権威をお持ちでした。細胞が新しくされて病(やまい)は癒(いや)されます。人の内面(うちめん)が根底(こんてい)から造(つく)り変(か)えられて罪(つみ)が赦(ゆる)されます。

人間は外側(そとがわ)しか変(か)えられませんが、神さまは人間を内側(うちがわ)から造(つく)り変(か)えることができます。心が新しくされる→動機(どうき)がきよめられる→言葉や行いが変(か)わるのです。人間(教育(きょういく)・道徳(どうとく)・自己(じこ)啓発(けいはつ)など)の方法(ほうほう)では、言葉や行いを変(か)える→?→?。で終わります。キリストの十字架(じゅうじか)のみわざは人間の理解(りかい)を超(こ)えた命(いのち)なのです。

取(しゅ)税人(ぜいにん)マタイはイエスを信(しん)じて、価値観(かちかん)が変(か)えられました。自分のためだけに使(つか)ってきたお金を、イエス様のために、隣人(となりびと)のために盛大(せいだい)に振(ふ)る舞(ま)いました。

人はキリスを信(しん)じて、罪(つみ)が赦(ゆる)され、きよめられ、変(か)わることが出来るのです。愛する心が生まれるのです。

イエス様の招(まね)きに応(こた)えないならあなたは罪人(つみびと)のまま決(けっ)して変(か)わることはできません。神の目からはすべての人間が罪人(つみびと)だと聖書(せいしょ)は言います。罪(つみ)は必(かなら)ず永遠(えいえん)の滅(ほろ)びという死(し)に至(いた)る病(やまい)です。罪(つみ)の癒(いや)しは、十字架(じゅうじか)であなたの罪(つみ)のために死(し)なれたイエスがよみがえられたことを信(しん)じる以(い)外(がい)ありません。

イエスの招(まね)きに応(こた)える者(しゃ)はイエス様と一緒(いっしょ)に食事(しょくじ)をします。ともに食事(しょくじ)をとるのは親友(しんゆう)であるしるしでした。

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)の預言者(よげんしゃ)ホセアは不貞(ふてい)の姦淫(かんいん)の女を妻(つま)にめとります(ホセア記)。

堕落(だらく)したイスラエルがまことの神様を捨(す)てて外国の神を崇(あが)めてみだらな礼拝(れいはい)を行いました。イスラエルの不真実(ふしんじつ)に対して、神さまの忍耐(にんたい)深(ぶか)い愛をあらわしています。

そして、新約(しんやく)の今、イエスが罪(つみ)と汚(けが)れの奴隷(どれい)である私たちと真実(しんじつ)な永遠(えいえん)の契(ちぎ)りを交(か)わして、結婚(けっこん)してくださることを預言(よげん)しています。

イエスはあなたに呼(よ)びかけています。それは罪人(つみびと)であるあなたの友となるためです。

神さまから離れて罪(つみ)の中に生きるあなたにイエス様は忍耐(にんたい)深(ぶか)い愛をもって、あなたが神さまに立(た)ち返(かえ)るように今も呼(よ)びかけています。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者(いしゃ)を必要(ひつよう)とするのは丈夫(じょうぶ)な者(しゃ)ではなく、病人(びょうにん)です。『わたしはあわれみは好(この)むが、いけにえは好(この)まない』とはどういう意味(いみ)か、行(おこな)って学(まな)んで来(き)なさい。わたしは正(ただ)しい人を招(まね)くためではなく、罪人(つみびと)を招(まね)くために来(き)たのです。」

(マタイの福音書9章12-13節)

「人生(じんせい)の転機(てんき)」ジョン・ニュートン(1725~1807)

奴隷(どれい)船(せん)の船長(せんちょう)から世界中(せかいじゅう)に知(し)られる讃美歌(さんびか)「アメイジング(おどろくばかりの)・グレイス(めぐみ)」の作詞(さくし)者(しゃ)へ

ニュートンは、1725年(ねん)にロンドンで生まれました。彼(かれ)の父親(ちちおや)は船乗(ふなの)りで、ほとんど家にいませんでした。子供たちを育(そだ)てる責任(せきにん)は、敬虔(けいけん)で愛情(あいじょう)深(ぶか)いクリスチャンの母親(ははおや)の肩(かた)にかかっていました。彼女(かのじょ)はいつもジョンの手を取(と)って、神(かみ)の前(まえ)にひざまずいて祈(いの)り、自分(じぶん)を主(しゅ)にささげるように導(みちび)きました。そして彼(かれ)に聖書(せいしょ)を読(よ)み、賛美歌(さんびか)を暗(あん)誦(しょう)することを教(おし)えました。彼(かれ)が7歳(さい)の時(とき)、母親(ははおや)は過労(かろう)と病気(びょうき)のために亡(な)くなりました。そのような打撃(だげき)によって、少年(しょうねん)の心(こころ)はかたくなになりました。11歳(さい)の時(とき)にいじめに遭(あ)い、学校(がっこう)を止(や)め、父親(ちちおや)について海(うみ)へ出(で)ました。彼(かれ)は20年(ねん)以上(いじょう)もの間(あいだ)、流浪(るろう)の放浪者(ほうろうしゃ)として過(す)ごしました。初(はじ)めは、船乗(ふなの)りの生活(せいかつ)をしましたが、放蕩(ほうとう)の生活(せいかつ)、酒(さけ)と賭(か)け事(ごと)の日々(ひび)でした。彼(かれ)は何度(なんど)も福音(ふくいん)を聞(き)きました。それを聞(き)くたびに、彼(かれ)は愛(あい)する母親(ははおや)の顔(かお)と教(おし)えを思(おも)い出(だ)し、心(こころ)が刺(さ)されました。しかし、彼(かれ)は邪悪(じゃあく)な生活(せいかつ)から抜(ぬ)け出(だ)せませんでした。

その後(ご)、彼(かれ)はアフリカに行(い)って、奴隷(どれい)貿易(ぼうえき)に携(たずさ)わりました。激(はげ)しい喧嘩(けんか)が起(お)こり、その結果(けっか)、今度(こんど)は彼(かれ)が奴隷(どれい)として売(う)られました。彼(かれ)は苦(くる)しみ、悩(なや)みました。心(こころ)の悩(なや)みと身体(しんたい)の苦(くる)しみから逃亡(とうぼう)しましたが、彼(かれ)を待(ま)ち受(う)けていたのは、さらに多(おお)くの鞭打(むちう)ちと投獄(とうごく)で、死(し)ぬような思(おも)いをしました。幸(さいわ)いに父(ちち)の友人(ゆうじん)であった親切(しんせつ)な船長(せんちょう)に助(たす)けられ、本国(ほんごく)に帰(かえ)ることになりました。しかし、その航海(こうかい)の途上(とじょう)、大西(たいせい)洋上(ようじょう)で恐(おそ)ろしい大暴風雨(だいぼうふうう)に巻(ま)き込(こ)まれ、浸水(しんすい)して、沈没(ちんぼつ)するばかりでした。彼(かれ)は必死(ひっし)に神(かみ)のあわれみを求(もと)め、悔(く)い改(あらた)めて、信仰(しんこう)に立(た)ち帰(かえ)ったのです。

ジョンは大嵐に遭い九死に一生を得た

その後(ご)も彼(かれ)の堕落(だらく)の生活(せいかつ)は改(あらた)まらず、荒(あら)くれの奴隷(どれい)船(せん)の船長(せんちょう)にさえなっていましたが、やがて神(かみ)の不思議(ふしぎ)な導(みちび)きによって、クリスチャンの船長(せんちょう)に出(で)会(あ)い、母親(ははおや)から教(おし)えられた神(かみ)に仕(つか)えるようになりました。

1754年(ねん)、当時(とうじ)の有名(ゆうめい)な伝道者(でんどうしゃ)、ジョン・ウェスレーやホィットフィールドの指導(しどう)を受(う)け、彼(かれ)も主(しゅ)の働(はたら)きをするようになりました。彼(かれ)はすばらしい語(ご)学力(がくりょく)があり、ギリシャ語(ご)やへブル語(ご)を学(まな)び、神(かみ)に大(おお)いに用(もち)いられました。

彼(かれ)の墓碑(ぼひ)には次(つぎ)のように刻(きざ)まれています。

「ジョン・ニュートン、伝道者(でんどうしゃ)、かつては深(ふか)き放蕩(ほうとう)の限(かぎ)りを尽(つ)くした無神論者(むしんろんしゃ)で、アフリカの奴隷(どれい)貿易(ぼうえき)をした者(もの)が、主(しゅ)イエス・キリストの深(ふか)き恵(めぐ)みによって赦(ゆる)され、救(すく)われ、生(う)まれ変(か)わり、神(かみ)のしもべとして福音(ふくいん)を宣(の)べ伝(つた)える者(もの)となる


苦難の中であなたと神の間にいるお方

ヨブ記1章20-22節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月24日

<聖書>

このとき、ヨブは立ち上がり、その上(うわ)着(ぎ)を引(ひ)き裂(さ)き、頭(あたま)をそり、地(ち)にひれ伏(ふ)して礼拝(れいはい)し、そして言った。「私は裸(はだか)で母(はは)の胎(たい)から出て来た。また、裸(はだか)で私はかしこに帰(かえ)ろう。【主(ぬし)】は与(あた)え、【主(ぬし)】は取(と)られる。【主(ぬし)】の御名(みな)はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪(つみ)を犯(おか)さず、神(かみ)に愚痴(ぐち)をこぼさなかった。

(ヨブ記1章20-22節)

<説教>

ヨブは潔白(けっぱく)で正しい人でした。神(かみ)さまをおそれて悪(あく)から遠(とお)ざかっていました。彼は苦難(くなん)の中でも罪(つみ)を犯(おか)さずに神(かみ)さまをほめたたえました。
しかし、ヨブは一度(いちど)に家族(かぞく)と家財(かざい)を失(うしな)い、体中(からだじゅう)がひどい病(やまい)に侵(おか)されました。妻(つま)や友人(ゆうじん)たちの慰(なぐさ)めも、ヨブの心には全(まった)く届(とど)きませんでした。彼の苦難(くなん)は嘆(なげ)いても忍耐(にんたい)してもどうにもなりませんでした。
ヨブは自分が正しく生きてきたことを知(し)っていました。その自分が何故(なぜ)これほどの苦(くる)しみを受けるのかわかりませんでした。

ヨブが最(もっと)もおそれたことは、死(し)ぬこともできず苦(くる)しみ生(い)き続(つづ)けることでした。あまりの苦(くる)しみに彼は、生まれたことをのろい、死(し)を願(ねが)います。しかし、死後(しご)がわからない不安(ふあん)、恐(おそ)れがありました。また神(かみ)さまに誤解(ごかい)されたまま死(し)にたくありませんでした。結局(けっきょく)、ヨブは死(し)ぬことが問題(もんだい)の解決(かいけつ)ではないとわかります。

すべての解決(かいけつ)は神(かみ)さまとの関係(かんけい)の回復(かいふく)なのです。ヨブの苦(くる)しみの原因(げんいん)は、親族(しんぞく)や友人(ゆうじん)にわかってもらえず、見捨(みす)てられることではなかったのです。彼の苦(くる)しみは神(かみ)さまとの信頼(しんらい)関係(かんけい)を失(なく)くしたことでした。

ヨブは最後(さいご)の慰(なぐさ)めは神(かみ)さまと神(かみ)さまのことばだと気付(きづ)きます。まことの信仰者(しんこうしゃ)はすべてのことは人間中心ではなく、神(かみ)中心であると信(しん)じます。みことば(神(かみ)の啓示(けいじ)の聖書(せいしょ))を信(しん)じて人は救(すく)われるのです。

ヨブは自分の命は神(かみ)さまからいただいたことを知(し)ります。神(かみ)さまを信(しん)じる者は最後(さいご)で最大(さいだい)の苦難(くなん)である死(し)から救(すく)われます。

人は、死(し)ぬとき、何一(なにひと)つ持(も)って行(い)くことができず、その栄誉(えいよ)も彼に従(したが)って下(くだ)っては行(い)かないのだ。 

(詩篇(しへん)49篇17節)

ヨブは神(かみ)さまのことばに立ち返ります。ヨブは神(かみ)さまなしに自分を頼(たよ)りにして義(ぎ)(正しい)としていたのです。彼は自分と神(かみ)さまとの間をとりもつお方(かた)(仲介者(ちゅうかいしゃ)イエス様)を信(しん)じました。神(かみ)さまはヨブを通(とお)して神(かみ)さまと人間を和解(わかい)してくださる罪(つみ)からの救(すく)い主であるイエス様を私たちに明(あき)らかにしてくださいました。

信(しん)じる者は死後(しご)に会うイエス様を今、苦難(くなん)の中にあって出会えるのです。

私は知(し)っている。私を贖(あがな)う方(かた)は生(い)きておられ、後(のち)の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮(かわ)が、このようにはぎとられて後(のち)、私は、私の肉(にく)から神(かみ)を見る。この方(かた)を私は自分(じぶん)自身(じしん)で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶(た)え入(い)るばかりだ。 

(ヨブ記19章25-27節)

人生を支える2本の柱~あなたのすべてを知るお方が必要

詩篇139篇1-16節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月17日

<聖書>

指揮者(しきしゃ)のために。ダビデの賛歌(さんか)

【主(しゅ)】よ。あなたは私を探(さぐ)り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠(とお)くから読(よ)み取(と)られます。あなたは私の歩(あゆ)みと私の伏(ふ)すのを見守(みまも)り、私の道(みち)をことごとく知っておられます。ことばが私の舌(した)にのぼる前に、なんと【主(しゅ)】よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取(と)り囲(かこ)み、御手(みて)を私の上に置(お)かれました。そのような知識(ちしき)は私にとってあまりにも不思議(ふしぎ)、あまりにも高くて、及(およ)びもつきません。

私はあなたの御霊(みたま)から離(はな)れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前(みまえ)を離(はな)れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天(てん)に上(のぼ)っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床(とこ)を設(もう)けても、そこにあなたはおられます。私が暁(あかつき)の翼(つばさ)をかって、海(うみ)の果(は)てに住(す)んでも、そこでも、あなたの御手(みて)が私を導(みちび)き、あなたの右の手が私を捕(と)らえます。

たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回(まわ)りの光(ひかり)よ。夜(よる)となれ」と言っても、あなたにとっては、やみも暗(くら)くなく夜(よる)は昼(ひる)のように明(あか)るいのです。暗(くら)やみも光(ひかり)も同じことです。

それはあなたが私の内臓(ないぞう)を造(づく)り、母の胎(たい)のうちで私を組(く)み立(た)てられたからです。私は感謝(かんしゃ)します。あなたは私に、奇(くす)しいことをなさって恐(おそ)ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造(づく)られ、地(ち)の深(ふか)い所(ところ)で仕組(しく)まれたとき、私の骨組(ほねぐ)みはあなたに隠(かく)れてはいませんでした。あなたの目は胎児(たいじ)の私を見られ、あなたの書物(しょもつ)にすべてが、書きしるされました。私のために作(つく)られた日々(ひび)が、しかも、その一日(いちにち)もないうちに。

(詩篇(しへん)139篇1-16節)

<説教>

150篇(へん)ある詩篇(しへん)の半数(はんすう)は神さまに助(たす)けを求(もと)める祈(いの)りです。その大半(たいはん)はダビデが書いた詩篇(しへん)です。彼は名もない羊飼(ひつじか)いからイスラエルの王となりました。詩篇(しへん)にはひとりの人間としてのダビデの正直(しょうじき)な告白(こくはく)があります。

あなたはどこにいても何をしていても、自分から離(はな)れることはできません。もうひとりあなたと一緒(いっしょ)にいる方(かた)、それが神さまです。神さまはあなたのことを全(すべ)てご存知(ぞんじ)です。

神さまは、あなたが話す前にその言葉(ことば)を知っています。あなたが何かをする時、その動機(どうき)さえも知っています。あなたの心(こころ)の深(ふか)い内面(ないめん)をご存知(ぞんじ)なのです。

造(つく)られたもので、神の前で隠(かく)れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸(はだか)であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明(べんめい)をするのです。

(へブル人への手紙4章13節)

あなたは、ひとりで寂(さみ)しく、偶然(ぐうぜん)に生まれたのではありません。あなたが両親(りょうしん)から生まれる前から、神さまはあなたをご存知(ぞんじ)でした。聖書(せいしょ)によると、この世界(せかい)が創(つく)られる前からあなたの人生(じんせい)は神さまによって定(さだ)められていました。神さまはあなたの存在(そんざい)を愛しておられるのです。

あなたの人生(じんせい)にはふたつの柱(はしら)があります。ひとつはあなたの意志(いし)です。もうひとつは神さまの御心(みこころ)(おもい)です。あなたの人生(じんせい)という家がしっかりと建(た)つには、このふたつの柱(はしら)が必要(ひつよう)です。

あなたがどんなに努力(どりょく)して頑張(がんば)っても、本当に豊(ゆた)かな人生(じんせい)には到達(とうたつ)できません。神さまの御心(みこころ)を知(し)り、自分の人生(じんせい)が神さまによって建(た)て上(あ)げられなければなりません。神さまはあなたに使命(しめい)を与え、あなたの人生(じんせい)にご計画(けいかく)をお持(も)ちなのです。それはあなたが考(かんが)える人生(じんせい)とはまったく違(ちが)うかも知(し)れません。しかし、神さまには完全(かんぜん)なご計画(けいかく)です。

人は心(こころ)に自分の道(みち)を思(おも)い巡(めぐ)らす。しかし、その人の歩(あゆ)みを確(たし)かなものにするのは【主(しゅ)】である                                 

(箴言(しんげん)16章9節)

ダビデは王さまになるまでに、試練(しれん)と屈辱(くつじょく)を経験(けいけん)しました。それは神さまがダビデを訓練(くんれん)して信仰(しんこう)の人とするためでした。神さまにひざまずき、神さまに信頼(しんらい)する者(もの)となるためでした。

また、ダビデは自分の罪(つみ)や汚(けが)れに苦(くる)しみました。しかし、神さまの御心(みこころ)はそのことを責(せ)めるのではなく、ダビデが正直(しょうじき)に自分の罪(つみ)やあやまちやを神さまに告白(こくはく)するなら、罪(つみ)をゆるし、けがれをきよめることでした。

神さまの御心(みこころ)を知(し)り、神さまとともに生きるためには、まずイエス様を信(しん)じることから始(はじ)まります。このお方(かた)が人間のすべての苦(くる)しみをご存知(ぞんじ)で、人間の罪(つみ)をゆるすために、十字架(じゅうじか)で死(し)んでよみがえられたのです。

あなたはひとりぼっちではありません。イエス様があなたを知(し)っておられ、いつも共(とも)におられます。

ダビデの賛歌(さんか)


【主(しゅ)】は私の羊飼(ひつじか)い。私は、乏(とぼ)しいことがありません。
主(しゅ)は私を緑(みどり)の牧場(ぼくじょう)に伏(ふ)させ、いこいの水のほとりに伴(ともな)われます。
主(しゅ)は私のたましいを生き返らせ、御名(みな)のために、私を義(ぎ)の道(みち)に導(みちび)かれます。
たとい、死(し)の陰(かげ)の谷(たに)を歩くことがあっても、私はわざわいを恐(おそ)れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖(つえ)、それが私の慰(なぐさ)めです。
私の敵(てき)の前で、あなたは私のために食事(しょくじ)をととのえ、私の頭に油(あぶら)をそそいでくださいます。私の杯(さかずき)は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限(かぎ)り、いつくしみと恵(めぐ)みとが、私を追(お)って来(く)るでしょう。私は、いつまでも、【主(しゅ)】の家に住(す)まいましょう。

(詩篇23篇)

過去にとらわれない。赦されて生きる

ヨハネの福音書21章14-22節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月10日

<聖書>

イエスが、死人(しにん)の中からよみがえってから、弟子(でし)たちにご自分を現(あらわ)されたのは、すでにこれで三度目である。
彼らが食事(しょくじ)を済(す)ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛(あい)しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主(しゅ)よ。私があなたを愛(あい)することは、あなたがご存(ぞん)じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊(こひつじ)を飼(か)いなさい。」
イエスは再(ふたた)び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛(あい)しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主(しゅ)よ。私があなたを愛(あい)することは、あなたがご存(ぞん)じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊(ひつじ)を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛(あい)しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛(あい)しますか」と言われたので、心を痛(いた)めてイエスに言った。「主(しゅ)よ。あなたはいっさいのことをご存(ぞん)じです。あなたは、私があなたを愛(あい)することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊(ひつじ)を飼(か)いなさい。
まことに、まことに、あなたに告(つ)げます。あなたは若(わか)かった時には、自分で帯(おび)を締(し)めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸(の)ばし、ほかの人があなたに帯(おび)をさせて、あなたの行きたくない所に連(つ)れて行きます。」
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現(あらわ)すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従(したが)いなさい。」
ペテロは振(ふ)り向(む)いて、イエスが愛(あい)された弟子(でし)があとについて来るのを見た。この弟子(でし)はあの晩餐(ばんさん)のとき、イエスの右側(みぎがわ)にいて、「主(しゅ)よ。あなたを裏切(うらぎ)る者はだれですか」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主(しゅ)よ。この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望(のぞ)むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従(したが)いなさい。」

(ヨハネの福音書21章14-22節)

<説教>

人間にはどうしても変(か)えられないことがあります。人生に「もしも…」はないと言われますが、過去(かこ)の失敗(しっぱい)や過(あやま)ちをやり直(なお)すことはできません。
ペテロはイエス様が十字架(じゅうじか)に付(つ)けられる前に、自分(じぶん)可愛(かわい)さにイエス様を裏切(うらぎ)って見捨(みす)てました。彼はそれから故郷(ふるさと)のガリラヤへ帰り、もとの漁師(りょうし)の仕事(しごと)に戻(もど)りました。しかし、何か大切(たいせつ)なものを失(うしな)ったようでした。

人は過去(かこ)の罪(つみ)をいくら悔(く)やんでも責(せ)めても元に戻(もど)りません。何かに没頭(ぼっとう)して過去(かこ)を忘(わす)れようとしたり、善(よ)いことをして、自分を満足(まんぞく)させようとしても、それは一時的(いちじてき)で根本的(こんぽんてき)な解決(かいけつ)にはならないのです。ましてや、苦(くる)しみ、悲(かな)しみ、不安(ふあん)や恐(おそ)れから逃(に)げるために死を選(えら)ぶことは、解決(かいけつ)どころか、もっとも大きな罪(つみ)を犯(おか)すことになるのです。聖書(せいしょ)は言います。

わたしは、だれが死ぬのも喜(よろこ)ばないからだ。──神である主(しゅ)の御告(みつ)げ──だから、悔(く)い改(あらた)めて、生(い)きよ。

(エゼキエル書18:32)

もし、あなたがもう今までの罪深(つみぶか)い生(い)き方(かた)をやめたい。私は人間らしく正しく、真実(しんじつ)に生(い)きていきたいと願(ねが)っても、具体的(ぐたいてき)にどうすればいいのかわからないかもしれません。
あなたの過去(かこ)の過(あやま)ちを責(せ)める人がいても、また自分で自分を責(せ)めて、過去(かこ)から新しく始めることができないとしても、神さまはあなたの罪(つみ)を責(せ)めることはありません。あなたの罪(つみ)を赦(ゆる)したいと、ひとり子のイエス様を十字架(じゅうじか)につけてくださったのです。

あなたは今まで誰(だれ)に従(したが)ってきましたか。ペテロは十字架(じゅうじか)で死なれよみがえられたイエス様を愛しているか問われます。誰(だれ)よりもペテロは自分を愛し、自分に従(したが)ってきたのです。

次の聖書(せいしょ)のみことばを信(しん)じて、あなたの罪(つみ)の身代(みが)わりのためにイエス様が十字架(じゅうじか)で死なれたことを信(しん)じるなら、あなたの罪(つみ)はすべて赦(ゆる)されます。神さまとの正しい関係(かんけい)に生(い)きる者に新しく変えられます。

そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの罪(つみ)をその身(み)に負(お)われました。それは、私たちが罪(つみ)を離(はな)れ、義(ぎ)のために生(い)きるためです。キリストの打(う)ち傷(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊(ひつじ)のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者(ぼくしゃ)であり監督者(かんとくしゃ)である方(かた)のもとに帰(かえ)ったのです。

(ペテロの手紙第一2:24-25)

あなたの人生(じんせい)はみじめで、どうでもいい偶然(ぐうぜん)なものではありません。どうか誰(だれ)かの人生(じんせい)と比(くら)べないでください。神さまが用意(ようい)された、かけがえのないあなたのための祝福(しゅくふく)の人生(じんせい)なのです。

あなたが過去(かこ)の罪(つみ)の苦(くる)しみで人生(じんせい)をあきらめないために、イエス様はあなたを愛し、十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。その愛の意味(いみ)を信(しん)じるなら、誰(だれ)とも比(くら)べられないあなたの人生(じんせい)の大切な意味(いみ)が必ずわかります。

あなたは生まれてから死ぬまでの間に、イエス様を信(しん)じて、神さまと和解(わかい)して、罪(つみ)赦(ゆる)された者として新しく生(い)きてゆけるのです。

ただ一つわかること。今、私は見える

ヨハネの福音書9章1-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月3日

またイエスは道(みち)の途中(とちゅう)で、生(う)まれつきの盲人(もうじん)を見(み)られた。

弟子(でし)たちは彼(かれ)についてイエスに質問(しつもん)して言(い)った。「先生(せんせい)。彼(かれ)が盲目(もうもく)に生(う)まれついたのは、だれが罪(つみ)を犯したからですか。この人ですか。その両親(りょうしん)ですか。」

イエスは答えられた。「この人が罪(つみ)を犯(おか)したのでもなく、両親(りょうしん)でもありません。神(かみ)のわざがこの人(ひと)に現(あらわ)れるためです。

わたしたちは、わたしを遣(つか)わした方(かた)のわざを、昼(ひる)の間(あいだ)に行(おこな)わなければなりません。だれも働(はたら)くことのできない夜(よる)が来(き)ます。

わたしが世(よ)にいる間(あいだ)、わたしは世(よ)の光(ひかり)です。」

イエスは、こう言(い)ってから、地面(じめん)につばきをして、そのつばきで泥(どろ)を作(つく)られた。そしてその泥(どろ)を盲人(もうじん)の目(め)に塗(ぬ)って言(い)われた。

「行(い)って、シロアム(訳(やく)して言(い)えば、遣(つか)わされた者(もの))の池(いけ)で洗(あら)いなさい。」そこで、彼(かれ)は行(い)って、洗(あら)った。すると、見(み)えるようになって、帰って行(い)った。

(ヨハネの福音書9章1-7節)

【説教】

【生まれつきという人間の運命(うんめい)】

私は盲目(もうもく)であったのに、今は見えるということです。

(ヨハネの福音書9:25)

この生まれつきの盲人(もうじん)はイエス様によって目が開かれました。彼は生きとし生けるものや自然(しぜん)の風景(ふうけい)が見えるようになりました。信仰(しんこう)が与(あた)えられ、見えないものを信じる者になったのです。イエス様が神さまだとわかって、また自分の以前(aいぜん)の罪深(つみぶか)い姿を知ったのです。イエス様を信じる前の古い自分と、信じた後、新しく変えられた自分がわかったのです。

この反対(はんたい)の記事(きじ)が聖書(せいしょ)の創世記(そうせいき)3章の人間に罪(つみ)が入った出来事です。

それ以来(いらい)すべての人間は罪(つみ)人(びと)として生まれてきます。見えない神がわからず、自分の罪(つみ)がわからない状態(じょうたい)で生まれます。

生まれつきの盲人(もうじん)がイエス様の塗(ぬ)った泥(どろ)で目がふさがれ、池まで歩いている姿は人から見れば愚(おろ)かで笑(わら)われるかも知れません。しかし、信仰(しんこう)とは一見(いっけん)、愚(おろ)かに見えるのです。しかし、人からどう見られようとも、心から疑(うたが)わずにまっすぐに信じなければなりません。

キリストが十字架(じゅうじか)にかけられて殺(ころ)されるときもそうでした。しかし、罪(つみ)の生き方から救(すく)い出され、生まれ変わり、目が見えるようになるには、この愚(おろ)かにも思われるキリストの十字架(じゅうじか)の事実(じじつ)を信(しん)じる以(い)外(がい)ないのです。多くの人が十字架(じゅうじか)など何の意味もない、今の進化(しんか)した科学(かがく)万能(ばんのう)の時代(じだい)に何の力もない、ただの聖書(せいしょ)のお話しだと終わらせている、この十字架(じゅうじか)にこそ唯一の救(すく)いがあるのです。

【運命(うんめい)、血のつながり、弱さやハンディキャップからの解放(かいほう)】

先祖(せんぞ)の呪(のろ)いで生まれつきの盲人(もうじん)として生まれ、乞食(こじき)以外(いがい)生きる道はなく、彼はその人生を受け入れていたかもしれません。その自分の運命(うんめい)は誰(だれ)にも変えられないとなかばあきらめていたかも知れません。

しかし、イエス様は言います。「あなたの、どうしようもない運命(うんめい)は、あなたの罪(つみ)でも、両親の罪(つみ)のせいでもない。神さまの栄光(えいこう)の奇蹟(きせき)が現(あらわ)れるためだ」と。

またイエスは道の途中(とちゅう)で、生まれつきの盲人(もうじん)を見られた。

(ヨハネの福音書9:1)

目が見えない盲人(もうじん)にはこのイエス様のまなざしは気付きません。しかし、私たちにはわからなくても、全知全能(ぜんちぜんのう)のイエス様はあなたを見ておられます。

いかなる運命(うんめい)があなたを縛(しば)っていたとしても、あなたの血筋(ちすじ)がどうであろうと、誰(だれ)もあなたの価値(かち)を認めてくれなくても、自分の力ではどうしても暗闇(くらやみ)の中からどうして光の射(さ)す場所へ出ることができないとしても、そのあなたの運命(うんめい)に神さまは働かれるのです。奇蹟(きせき)を起こされるのです。

生まれつきの盲人(もうじん)の目を開くことなど聞いたことがない。前代(ぜんだい)未聞(みもん)でありえない奇蹟(きせき)を彼は体験したのです。本当の奇蹟(きせき)は今、彼が神を信じて礼拝(れいはい)していることです。

これは説明(せつめい)のつかない根拠(こんきょ)のない奇蹟(きせき)ではありません。キリストが2000年前にカルバリの十字架(じゅうじか)で死んでよみがえり、あなたの運命(うんめい)を変えてくださったのです。

神さまから遠く離(はな)れて、闇(やみ)の中を罪(つみ)深(ぶか)く生きて、やがて死んでしまう運命(うんめい)から、キリストを信じて生まれ変わり、イエスのふところに帰り、光の中に生きる者に変えてくださったのです。

まことに、まことに、あなたがたに告(つ)げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣(つか)わした方を信じる者は、永遠(えいえん)のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

(ヨハネの福音書5:24)