罪赦された者として愛に生きる

ルカの福音書7章36-50節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月26日

<聖書>

さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招(まね)いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓(しょくたく)に着(つ)かれた。
すると、その町にひとりの罪深(つみぶか)い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓(しょくたく)に着(つ)いておられることを知り、香油(こうゆ)の入った石膏(せっこう)のつぼを持って来て、
泣きながら、イエスのうしろで御足(みあし)のそばに立ち、涙(なみだ)で御足(みあし)をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足(みあし)に口づけして、香油(こうゆ)を塗(ぬ)った。
イエスを招(まね)いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者(よげんしゃ)なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深(つみぶか)い者なのだから」と心ひそかに思っていた。
するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。
「ある金貸(かねか)しから、ふたりの者が金を借(か)りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借(か)りていた。
彼らは返(かえ)すことができなかったので、金貸(かねか)しはふたりとも赦(ゆる)してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸(かねか)しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが、「よけいに赦(ゆる)してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断(はんだん)は当たっています」と言われた。
そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗(あら)う水をくれなかったが、この女は、涙(なみだ)でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。
あなたは、わたしの頭に油(あぶら)を塗(ぬ)ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油(こうゆ)を塗(ぬ)ってくれました。
だから、わたしは『この女の多くの罪(つみ)は赦(ゆる)されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦(ゆる)されない者は、少ししか愛しません。」
そして女に、「あなたの罪(つみ)は赦(ゆる)されています」と言われた。
すると、いっしょに食卓(しょくたく)にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪(つみ)を赦(ゆる)したりするこの人は、いったいだれだろう。」
しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰(しんこう)が、あなたを救(すく)ったのです。安心して行きなさい。」

(ルカの福音書7章36-50節)

<説教>

パリサイ人のシモンはイエスを食事に招(まね)きました。

そこに招(まね)かざる、ひとりの罪深(つみぶか)い女がイエスのために自分のできる最高の愛を捧(ささ)げます。

町中の者が、この女の悪い噂(うわさ)を知っていました。おそらく遊女(ゆうじょ)であったと思われます。この女自身が、自分の罪深(つみぶか)い生き方をこれ以上続けられないどん底(ぞこ)に苦(くる)しんでいました。そんな時、イエスの噂(うわさ)を聞きました。

イエスは多くの人々を病気と苦(くる)しみと悪霊(あくれい)からいやし、死人をよみがえらせ、貧(まず)しい者たちに罪(つみ)の救(すく)いの福音(ふくいん)を宣(の)べ伝(つた)えていました(ルカ7:21-23)。

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫(じょうぶ)な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招(まね)くためではなく、罪人(つみびと)を招(まね)くために来たのです。』」

(マルコの福音書2:17)

もう女は、明日を生きる力もありませんでした。なぜこんな人生になってしまったのか。愛されたい。心から喜(よろこ)んで生きたい…すべての希望(きぼう)は消え去っていきました。

そんなときにイエス様のことを聞いたのです。そして、彼女はイエス様を信じて、心のありのままをイエス様に祈ったのです。

その瞬間(しゅんかん)でした。彼女の重い心が、傷が、罪責(ざいせき)が取り去られたのです。

内から溢(あふ)れる愛と感謝を押(お)さえきれずに、彼女はイエス様に会いに行きます。

このパリサイ人のシモンはイエスを預言者(よげんしゃ)かも知れないと思いました。今、あちこちで評判(ひょうばん)のイエスの人気にあやかろうと招(まね)きました。当時の客人(きゃくじん)をもてなす当たり前の、足を洗う水も、祝福(しゅくふく)の口づけも彼にはありませんでした。

罪深(つみぶか)い女とシモンの違(ちが)いは何でしょうか。それは自分の罪(つみ)の自覚(じかく)の違(ちが)いです。

イエスが言われた、たとえの借金(しゃっきん)の金額(きんがく)のように、自分の罪(つみ)を数量(すうりょう)で測(はか)ることはできません。ただ自分の罪(つみ)の自覚(じかく)によるのです。そしてパリサイ人シモンと女の違(ちが)いは、愛する生き方において明らかになるのです。

「だから、わたしは『この女の多くの罪(つみ)は赦(ゆる)されている』と言います。
それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦(ゆる)されない者は、少ししか愛しません。」

(ルカの福音書7:47)

神はどんな罪(つみ)も赦(ゆる)してくださるのでしょうか。そうです。赦(ゆる)されない罪(つみ)はありあません。

人間ならば、償い切れない罪(つみ)があるかも知れません。しかし、神の前では赦(ゆる)されない罪(つみ)はないのです。それは、私たちが罪(つみ)を償うのではなく、キリストが人間が負(お)うべき罪(つみ)の刑罰(けいばつ)を身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)でご自身のきよい命によって払ってくださったからです。

シモンはイエスが罪(つみ)の赦(ゆる)しを宣言(せんげん)した事実(じじつ)が、わかりませんでした。

しかし、この罪深(つみぶか)い女が、香油(こうゆ)を塗(ぬ)り、涙(なみだ)でぬらして、髪の毛でぬぐった御足(みあし)、そのお方は預言者(よげんしゃ)どころか、この地上で唯一(ゆいいつ)、人間の罪(つみ)を赦(ゆる)すことが出来るお方、救(すく)い主(ぬし)だったのです(マルコ2:10、使徒4:12)。

すべての人は、神を見なければなりません。このキリストなる神さまによって罪(つみ)を赦(ゆる)されなければなりません。その重荷(おもに)はあなた一人で負(お)うにはあまりにも重すぎるのです。

この女の姿こそが信仰(しんこう)に生きる者の姿です。

「信仰(しんこう)がなくては、神に喜(よろこ)ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報(むく)いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

(ヘブル人への手紙11:6)

「しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰(しんこう)が、あなたを救(すく)ったのです。安心して行きなさい。」」

(ルカの福音書7:50)

この「安心して行きなさい」は平安に入りなさいという意味です。

そして、赦(ゆる)された者は、愛する者として生きるのです。

イエスを信じて罪(つみ)の重荷(おもに)をおろして、愛と平安と喜(よろこ)びの人生に生きていこうではありませんか。

土の器~闇から光へ

コリント人への手紙第二3章16節-4章7節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月19日

<聖書>

しかし、人が主(しゅ)に向くなら、そのおおいは取(と)り除(のぞ)かれるのです。
主(しゅ)は御霊(みたま)です。そして、主(しゅ)の御霊(みたま)のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取(と)りのけられて、鏡(かがみ)のように主(しゅ)の栄光(えいこう)を反映(はんえい)させながら、栄光(えいこう)から栄光(えいこう)へと、主(しゅ)と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊(みたま)なる主(しゅ)の働きによるのです。
こういうわけで、私たちは、あわれみを受(う)けてこの務(つと)めに任(にん)じられているのですから、勇気(ゆうき)を失(うしな)うことなく、
恥(は)ずべき隠(かく)された事を捨(す)て、悪巧(わるだく)みに歩まず、神のことばを曲(ま)げず、真理を明らかにし、神の御前(みまえ)で自分自身をすべての人の良心(りょうしん)に推薦(すいせん)しています。
それでもなお私たちの福音(ふくいん)におおいが掛(か)かっているとしたら、それは、滅(ほろ)びる人々の場合に、おおいが掛(か)かっているのです。その場合、この世の神が不信者(ふしんじゃ)の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光(えいこう)にかかわる福音(ふくいん)の光を輝(かがや)かせないようにしているのです。
私たちは自分自身を宣(の)べ伝(つた)えるのではなく、主(しゅ)なるキリスト・イエスを宣(の)べ伝(つた)えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕(つか)えるしもべなのです。
「光が、やみの中から輝(かがや)き出よ」と言われた神は、私たちの心を照(て)らし、キリストの御顔(みかお)にある神の栄光(えいこう)を知る知識(ちしき)を輝(かがや)かせてくださったのです。
私たちは、この宝(たから)を、土(つち)の器(うつわ)の中に入れているのです。それは、この測(はか)り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

(コリント人への手紙第二3章16節-4章7節)

<説教>

①人間の心は覆(おお)いが掛(か)かっていて、自分の力で神を知ることができません。

この手紙を書いたパウロも、昔は神に逆(さか)らい、キリスト者を迫害(はくがい)していました。しかし、神の光がパウロの心を照(て)らし、よみがえられたキリストと出会い、神を信じる者に変えられました。

②この世の神(悪魔(あくま))が人間の思いに覆(おお)いを掛(か)けて、神を知ることを妨(さまた)げています。

それは、滅(ほろ)びる人々の場合に、おおいが掛(か)かっているのです。その場合、この世の神が不信者(ふしんじゃ)の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音(ふくいん)の光を輝(かがや)かせないようにしているのです。

(Ⅱコリント4:3-4)

では、人間は神を知り、信じることはできないのでしょうか。

いいえ。悪魔(あくま)は人間の心に覆(おお)いを掛(か)けても、神は、人間の心を光で照(て)らしてくださいます。

人が自分の罪(つみ)を認め、悔(く)い改(あらた)めるとき、神はそのように働いてくださいます。

③人間は神に心を照(て)らしていただき、キリストを通して神を知ることができるのです。

パウロは、福音(ふくいん)(キリストを信じるなら、人は救(すく)われるというよい知らせ)に仕える者とされました。しかし、パウロは言います。

私たちは自分自身を宣(の)べ伝(つた)えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣(の)べ伝(つた)えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕(つか)えるしもべなのです。

(Ⅱコリント4:5)

パウロは自分のことではなく、十字架(じゅうじか)に付けられたイエスを宣(の)べ伝(つた)えました。キリスト者であっても弱(よわ)く、愚(おろ)かなものですが、自分のすべての罪(つみ)を贖(あがな)って(救(すく)って)くださったキリストにふさわしい生き方へ向かい、変えられていきます。

そのことをパウロは、次のみことばにたとえています。

私たちは、この宝(たから)を、土(つち)の器(うつわ)の中に入れているのです。それは、この測(はか)り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

(Ⅱコリント4:7)

古代(こだい)ローマでは、土(つち)の器(うつわ)に金貨(きんか)や銀貨(ぎんか)をいれてしまっておく習慣(しゅうかん)がありました。凱旋(がいせん)将軍(しょうぐん)の行軍(こうぐん)はこの土(つち)の器(うつわ)をもっていました。

キリストを信じた者も、神の子とされ、天国へいくことを約束された勝利者(しょうりしゃ)です。しかし、この世で苦難(くなん)や悩(なや)みがあり、自分の弱(よわ)さや愚(おろ)かさが完全になくなることはありません。

しかし、それであってもキリスト者は偉大(いだい)な勝利者(しょうりしゃ)なのです。しかし、その偉大(いだい)さは、彼らの中にある福音、キリストの栄光(えいこう)によるのです。

神の偉大(いだい)さとは、弱(よわ)い私たちを用いて、偉大(いだい)なことをしてくださることです。パウロはその神のあわれみによって人生が変えられました。神に造(つく)られた人間へと回復(かいふく)されたのです。

聖書(せいしょ)は人間を、陶器師(とうきし)である神に造(つく)られた土(つち)の器(うつわ)にたとえています。弱(よわ)くこわれやすい人間であるが、神に造(つく)られた尊(とうと)い存在(そんざい)です。弱(よわ)き小さい私の中に、比(くら)べることのできない測(はか)り知れない神の恵(めぐ)み、愛、力が生きているのです。

神は信じるわたしたちの覆(おお)いを取(と)り除(のぞ)いて、キリストの輝(かがや)きを、反射(はんしゃ)させるように私たちを輝(かがや)かせてくださいます。そして、もはや反射(はんしゃ)でなく、私たちをキリストに似(に)た者へと変え続けてくださるのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取(と)り除(のぞ)かれるのです。主は御霊(みたま)です。そして、主の御霊(みたま)のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取(と)りのけられて、鏡(かがみ)のように主の栄光(えいこう)を反映(はんえい)させながら、栄光(えいこう)から栄光(えいこう)へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊(みたま)なる主の働きによるのです。

(Ⅱコリント3:16-18)

イエス様と最後まで生きる

ヘブル人への手紙12章1-3節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月12日

<聖書>

こういうわけで、このように多くの証人(しょうにん)たちが、雲(くも)のように私たちを取(と)り巻(ま)いているのですから、私たちも、いっさいの重荷(おもに)とまつわりつく罪(つみ)とを捨(す)てて、私たちの前に置(お)かれている競走(きょうそう)を忍耐(にんたい)をもって走り続けようではありませんか。
信仰(しんこう)の創始者(そうししゃ)であり、完成者(かんせいしゃ)であるイエスから目を離(はな)さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置(お)かれた喜(よろこ)びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架(じゅうじか)を忍(しの)び、神の御座(みざ)の右に着座(ちゃくざ)されました。
あなたがたは、罪人(つみびと)たちのこのような反抗(はんこう)を忍(しの)ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲(つか)れ果(は)ててしまわないためです。

(へブル人への手紙12章1-3節)

<説教>

キリスト者として最後まで生きることは、決して簡単なことではないかも知れません。神さまに従(したが)って生きるキリスト者は日本でも1%未満(みまん)と言われています。

聖書によるとイエス様の弟子として従(したが)うキリスト者の歩みは「競争」なのです。

しかし、ヘブル人への手紙11章にある旧約聖書の信仰者が証人(しょうにん)として、私たちを励(はげ)ましてくれます。ただの声援(せいえん)ではなく、最後まで信仰(しんこう)に生きた証人(しょうにん)としてです。

そして、何より父なる神さまに従(したが)われたイエス様の信仰(しんこう)により、私たちもまた、このお方を目標として、また指導者(しどうしゃ)として、同伴者(どうはんしゃ)として歩んでいくのです。

旧約の信仰(しんこう)者と同様に、今の時代も罪の世であり、キリスト者として生きやすい所ではありません。

しかし、キリスト者として生きる問題は自分自身にあり、罪と重荷(おもに)を捨てて身軽(みがる)にして、競争を走り続けることが大切です。

ここでの罪とは「不信仰」です。一般的な信仰(しんこう)ではなく、御言葉(みことば)に従(したが)う信仰(しんこう)です。

信仰(しんこう)がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報(むく)いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。                                                   (ヘブル人への手紙11:6)

そのために、イエス様を見上げ続けることです。この方を見るならば、罪によって神さまとの関係を失うことはありません。疲(つか)れて座(すわ)り込(こ)んでも、また希望(きぼう)と力が与(あた)えられます。愛が生まれます。イエス様に似(に)た者へと造(つく)り変えてくださいます。

人間の罪によって、イエス様は十字架の苦しみとはずかしめを受けられましたが、よみがえりの先にある、神へつながる救いの道、信仰(しんこう)の栄冠(えいかん)を喜(よろこ)ばれました。

世の罪、また自分自身の罪により、苦難(くなん)がありますが、イエス様の信仰(しんこう)によって、栄光(えいこう)の勝利が約束されています。信仰(しんこう)がそれを確実(かくじつ)なものとしてくれるのです。

信仰(しんこう)は望んでいる事がらを保証(ほしょう)し、目に見えないものを確信(かくしん)させるものです。

(ヘブル人への手紙11:1)

私たちの本当の喜(よろこ)びとは、大切な人が喜(よろこ)んでいることでしょう。そこから喜(よろこ)びは始まります。イエス様は、あなたを愛されて喜(よろこ)んでおられます。喜(よろこ)んでイエス様を見続けましょう。人生のゴールで、必ずイエス様はあなたを迎(むか)えてくださいます。

私は自分のからだを打ちたたいて従(したが)わせます。それは、私がほかの人に宣(の)べ伝(つた)えておきながら、自分自身が失格者(しっかくしゃ)になるようなことのないためです。

(コリント人への手紙第一9:27)

イエス様と共に愛に生きる

ルカの福音書10章25-37節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月5日

<聖書>

すると、ある律法(りっぽう)の専門家(せんもんか)が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠(えいえん)のいのちを自分のものとして受(う)けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法(りっぽう)には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「『心(こころ)を尽(つ)くし、思(おも)いを尽(つ)くし、力(ちから)を尽(つ)くし、知性(ちせい)を尽(つ)くして、あなたの神である主(しゅ)を愛せよ』、また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身(じしん)のように愛せよ』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行(じっこう)しなさい。そうすれば、いのちを得(え)ます。」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人(となりびと)とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下(くだ)る道で、強盗(ごうとう)に襲われた。強盗(ごうとう)どもは、その人の着物(きもの)をはぎ取り、なぐりつけ、半殺(はんごろ)しにして逃(に)げて行った。
たまたま、祭司(さいし)がひとり、その道を下(くだ)って来たが、彼を見ると、反対側(はんたいそく)を通り過(す)ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側(はんたいそく)を通り過(す)ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅(たび)の途中(とちゅう)、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄(ちかよ)って傷(きず)にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜(かちく)に乗(の)せて宿屋(やどや)に連(つ)れて行き、介抱(かいほう)してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋(やどや)の主人に渡(わた)して言った。『介抱(かいほう)してあげてください。もっと費用(ひよう)がかかったら、私が帰りに払(はら)います。』
この三人の中でだれが、強盗(ごうとう)に襲(おそ)われた者の隣人(となりびと)になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

(ルカの福音書10章25-37節)

<説教>

この律法(りっぽう)の専門家(せんもんか)は、永遠(えいえん)のいのちを受けるために何を行えばいいのかイエスに質問しました。

すると彼は答えて言った。「『心を尽(つ)くし、思いを尽(つ)くし、力を尽(つ)くし、知性(ちせい)を尽(つ)くして、あなたの神である主(しゅ)を愛せよ』、また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

(ルカの福音書10:27)

このみことばは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)にある律法(りっぽう)です。

「あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18)

隣人(となりびと)とは誰(だれ)なのか、どのように愛するのか、その答えがイエスの語られた「良きサマリヤ人」(ルカ10:30-37)の姿です。

律法(りっぽう)の専門家(せんもんか)で神に仕(つか)える祭司(さいし)、レビ人は半殺(はんごろ)しになった人を見て反対側を通り過(す)ぎて行きます。律法(りっぽう)では死人に触(ふ)れると汚(けが)れ、神殿(しんでん)の奉仕(ほうし)ができなくなる。また、介抱(かいほう)する者が強盗(ごうとう)に襲(おそ)われる手口(てぐち)もよくあり、それを恐(おそ)れた…

しかし、自分を正しいとするいかなる理由も、神の前では通用しません。

それに対してサマリヤ人は

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中(とちゅう)、そこに来合(きあ)わせ、彼を見てかわいそうに思い、(ルカ10:33)

サマリヤ人のこの「かわいそうに思」う心こそがすべてなのです。この強盗(ごうとう)に襲われた人に対するあわれみの心によって、彼のすべての愛のわざが行なわれたのです。

祭司(さいし)、レビ人もわずかでも同情(どうじょう)があったはずなのです。私たちは、このあわれみを閉(と)ざしてはなりません。あわれみによって隣人(となりびと)が生まれるのです。だれかがあなたの隣人(となりびと)なのではありません。大切なのは、あなたが誰(だれ)かの隣人(となりびと)になれるということです。

この律法(りっぽう)の専門家(せんもんか)は、何を行えば永遠のいのちを得(え)るのか、また誰(だれ)がわたしの隣人(となりびと)なのかとイエスに聞きました。

人は良(よ)い行いによっては決して救(すく)われません。人は愛を行うものとして神の似(に)姿(すがた)に創造(そうぞう)されたのです。良(よ)い行いをする神の似(に)せて造(つく)られたのです。神さまがあなたに何を望(のぞ)んでおられるかを私たちは知っています。

私たちは神の作品であって、良(よ)い行いをするためにキリスト・イエスにあって造(つく)られたのです。神は、私たちが良(よ)い行いに歩むように、その良(よ)い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

(エペソ2:10)

もっとも大切なことは愛なのです。同情(どうじょう)するだけではなく、具体的(ぐたいてき)な行動(こうどう)が伴(ともな)う愛です。聖書が言う愛は感情(かんじょう)ではなく、態度(たいど)、姿勢(しせい)、行動(こうどう)、決断(けつだん)です。

愛は寛容(かんよう)であり、愛は親切(しんせつ)です。また人をねたみません。愛は自慢(じまん)せず、高慢(こうまん)になりません。礼儀(れいぎ)に反することをせず、自分の利益(りえき)を求(もと)めず、怒(いか)らず、人のした悪を思わず、不正を喜(よろこ)ばずに真理(しんり)を喜(よろこ)びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待(きたい)し、すべてを耐(た)え忍(しの)びます。愛は決して絶(た)えることがありません。

(Ⅰコリント13:4-8)

心が変われば人は変わります。愛された者は愛します。多く赦(ゆる)された者は多く愛します。いかなる人もイエスの愛に触(ふ)れられ罪赦(ゆる)されたなら、新しい心に変えられ、新しく生きられるのです。

永遠のいのちは、この愛をイエスとともにあらわして生きることです。

イエス様の「あなたも行って同じようにしなさい。(ルカ10:37)」は

あなたを新しい生き方に変えるみ言葉です。

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法(ふほう)から贖(あがな)い出し、良(よ)いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

(テトス2:14)