まことの命のパンであるキリスト①

マルコの福音書8章10-21節より

2020年8月30日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

6章の5千人の給食の奇蹟とよく似たお話が書かれています。著者であるマルコ(ペテロ)はここではパンを通して、イエス様を知らせようとしています。

イエス様は食べ物をもたない空腹の群集を心配されます。いつも弱い立場にいる者をかえりみておられます。

弟子たちは、どうしたらいいかわかりません。男4千人に対して、手もとにある食料はパンが7つとわずかな魚しかありません。イエス様はそのわずかなパンと魚を取り、感謝して、裂き弟子たちに配るように言います。

私たちが持っているものはすべて神様から与えられたものです。イエス様は、私たちの必要を満たしてくださるお方です。人間は神に与えられた恵みをただ受け取る存在なのです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ7:7)」と聖書にあります。体を満たすパンだけでなく、人間のたましいに命である霊を与えるためにキリストはまことのパンとして天から来られました。ユダヤ人にとってパンが主食として欠かせないように(日本人にとってご飯)、このキリストを信じて受け入れることがすべての人に必要です。

この4千人の給食の記事は、キリストの十字架の罪のゆるしにともなう永遠の命を表しています。キリストは人間の罪の身代わりに十字架に架かられました。キリストはまことのパンとして、十字架の上で裂かれ、そのきよい血によって、罪をゆるされ、永遠の命をすべての人に分け与える準備をされました。この罪のゆるし、永遠の命を自分のものにするために必要なことは、イエス様の招きにこたえて、今までの罪の生き方を悔い改めて、神様の方に人生を方向転換することです。

人間の罪を赦すことのできるお方は、神であられるキリストだけです。

キリストはまことの命のパン

マルコの福音書8章1-9節より

2020年8月23日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

6章の5千人の給食の奇蹟とよく似たお話が書かれています。著者であるマルコ(ペテロ)はここではパンを通して、イエス様を知らせようとしています。

イエス様は食べ物をもたない空腹の群集を心配されます。いつも弱い立場にいる者をかえりみておられます。

弟子たちは、どうしたらいいかわかりません。男4千人に対して、手もとにある食料はパンが7つとわずかな魚しかありません。イエス様はそのわずかなパンと魚を取り、感謝して、裂き弟子たちに配るように言います。

私たちが持っているものはすべて神様から与えられたものです。イエス様は、私たちの必要を満たしてくださるお方です。人間は神に与えられた恵みをただ受け取る存在なのです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ7:7)」と聖書にあります。体を満たすパンだけでなく、人間のたましいに命である霊を与えるためにキリストはまことのパンとして天から来られました。ユダヤ人にとってパンが主食として欠かせないように(日本人にとってご飯)、このキリストを信じて受け入れることがすべての人に必要です。

この4千人の給食の記事は、キリストの十字架の罪のゆるしにともなう永遠の命を表しています。キリストは人間の罪の身代わりに十字架に架かられました。キリストはまことのパンとして、十字架の上で裂かれ、そのきよい血によって、罪をゆるされ、永遠の命をすべての人に分け与える準備をされました。この罪のゆるし、永遠の命を自分のものにするために必要なことは、イエス様の招きにこたえて、今までの罪の生き方を悔い改めて、神様の方に人生を方向転換することです。

人間の罪を赦すことのできるお方は、神であられるキリストだけです。

言葉によって世界は存在する

マルコの福音書7章31-37節より

2020年8月16日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人々は耳が聞こえず、口のきけない人をイエス様の前に連れてきて、その人に手を置いてくださるように願いました。

イエス様の病の癒しのうわさを聞いて、病人本人がイエス様のもとに来る場合と、誰かに連れて来てもらう場合があります。またイエス様が病人のもとに来られる記事も聖書にはあります。

今日の箇所のろう者が群衆に囲まれたイエス様に近づいて自分のことを説明するのは難しかったのではないでしょうか。

盲人の苦しみや苦労が大変なことは多くの人は知っています。けれど、ろう者の苦痛を思う時、決して比べることなどできません。言葉による意思疎通ができない不便、また音のまったくない世界、音楽のない世界がどんなものであるか、想像もできません。

しかし、イエス様はこのろう者ひとりを連れ出し、耳を開き、口のもつれを解かれました。イエス様の言われたエパタ(開け)という言葉は、身体の一部がいやされ、閉ざされた部分が開かれたことにとどまりません。彼の人格のすべてが解放され自由とされたのです。

今の時代ほど、つながりを求める時代はないかもしれません。人間関係、また神様との関係が、生きるためには必要なのです。

闇の中で、孤立して、罪な生き方を続けるなら、聞くべきことが聞けず、話すべきことを話せません。

話す言葉は自分の耳にも入ってきます。自分の声が聞けなければ、話すことはできません。人間は言葉を通じて、様々なことを知ります。

神様の言葉を聞かなければ、私たちの心は決して変わりません。生まれたままの人間は神様の言葉を聞くことができません。あなたの罪のためにキリストが十字架で死なれたことを信じるなら、神さまに開かれた新しい命をいただきます。

信仰はキリストのおことばを聞くことからはじまります。キリストの言葉があなたの閉ざされていた心を開き、誰かの心を元気にする愛の言葉を語る者にされます。

人に何を言われても、自分の心が責めても、神の選び、キリストの救いを信じぬく

マルコの福音書7章24-30節より

2020年8月9日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスが異邦人の地であるツロに来られた時、ギリシヤ人の女は汚れた霊につかれた自分の娘をなおしてくださるようイエスのもとへやって来ました。

しかし、イエスは女の願いをすぐにはきかれませんでした。神さまの救いのご計画はまずはイスラエルの民を救うことでした。しかし、女はあきらめず、食い下がります。その信仰がほめられて、イエスは女の娘の汚れた霊は追い出されました。

当時、異邦人は汚れた罪人とされていました。けれども、イエスはすべての食物はきよいとされました。イエスの言葉によって信じる者はすでにきよくされています。

神様の救いのご計画はイスラエル民族から始まり、聖書を与え、救い主キリストを与え、サマリヤ人をはじめ、ギリシヤ人、信じるすべての人に救いを与えるのです。すべての民族を含む新しいイスラエルこそが教会です。

あなたは神様は自分のことなど無関心だと思いますか。神様はあなたの心の苦しみ、悩み、悲しみ、罪の汚れをご存知です。その解決のため、ご自分の子であるキリストをすべての人の罪の身代わりとして十字架につけられました。

この女のように、自分は神の救いから見放されたような罪人であるとしても、神さまに近づき、熱心に、あきらめないで、救いを信じ続けるならば、神様は決して拒まれず、救いを与えて下さいます。あなたは必ず、キリストの愛と命を受けます。

キリストこそがまことにあなたを完全に救うことのできるただ一人のお方です。

心の中にあるものが、その人をけがす

マルコの福音書7章14-23節より

2020年8月2日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

旧約聖書にはきよい物とけがれた物について書かれています。宗教に熱心なユダヤ人たちは、自分をきよく守るために、生活のあらゆる場面で、それこそ命がけでした。

食べ物は人の体に入って、消化されて、排せつされるだけで、人の心の中に入ることはありません。

悪い考えや、貪欲、自己中心な心の中の思いが人をけがすのです。それが言葉や行いとなって外側に現れるのです。

ユダヤ人のように外側の行いや儀式を守っても心の中がきよくなることはないのです。

すべての人は生まれながら罪をもっています。人間は罪の奴隷であると聖書は言います。

良い木は良い実を結びますが、悪い木は悪い実を結んで絶対に良い実を結びません。私たちは悪い木なのです。枝や葉ではなく、木そのものが変わらなければ良い実は結べません。すなわち心が変えられなければなりません。

イエス様は、すべての食べ物はきよいと言われます。これは当時のユダヤ人の常識くつがえすような、驚くべき新しい言葉でした。

人間の心を変えることができるのは、罪のないきよいキリストのみ言葉です。

この方を信じて生きるならば、聖霊なる神様があなたの内に住んでくださり、あなたの心の霊は新しくされます。十字架で罪を滅ぼされたキリストという木に接ぎ木され、あなたはきよい性質に変えられ続けるのです。