不完全な信仰を通して全能の神の力が働かれる

マルコの福音書9章14-29節より

2020年10月25日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

弟子たちは山の上で神の栄光が満ちる体験をしました。しかし私たちの日常の生活は山から降りた人の住む場所です。そこは悪いものが支配する罪の世です。

この世で神から離れて生きるなら、不信仰により、癒しも奇跡も起こりません。見える現実の世界以上も以下もありません。

イエスの弟子たちは悪霊を追い出す権威が与えられていましたが、不信仰のために子どもの病を治せませんでした。律法学者たちは、弟子たちの不甲斐ない姿を見て、イエスの神の力を引き下げようとします。イエスの癒しの力を信じて子どもを連れてきたはずの父親も、できますなら子どもを治してくださいと不信仰な姿勢でイエスにお願いします。

何事も不信仰によってのぞむなら、それは成し遂げられません。力以上、願う以上の成果は果たせません。しかし、「お心一つで私をきよくしていただけます」と大胆に願い求めた病人のように信仰によって物事に対するなら、神の力により、不可能な問題も成し遂げることができます。神の力により救い出してくださいます。

イエスがお言葉一つで悪霊を追い出したのは単なる悪霊はらいではありません。神の権威ある言葉が悪霊を追い出したのです。

信仰は半信半疑であってはなりません。信じる者は悪霊を追い出し病を癒す権威が与えられています。しかし、真に力を持っておられるのは神様です。神の力に不可能がありません。その力は信じる者の祈りを通して働かれます。

アーメン。

キリストの栄光と苦難の十字架

マルコの福音書9章2-13節より

2020年10月18日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

弟子たちはイエス様の栄光のお姿、また旧約聖書を代表するモーセとエリヤの出現に驚き恐れます。やがてモーセとエリヤの姿は消えて、イエス様だけが残ります。

そして父なる神様は、愛するイエス様の言うことを聞きなさいと言われます。

イエス様は誰にも比べることのできない特別なお方なのです。

しかし弟子たちは救い主の神様であるイエス様が十字架に死なれて、よみがえられることがわかりません。キリストも預言者の言葉も信じることができなかったのです。

私たちはどうでしょうか。聖書を神の言葉と信じて生活の土台としているでしょうか。イエス様はいつも心の中におられるでしょうか。

私たちもまた、自分の方法で問題の解決を考えてしまいがちです。自分の力や能力に頼りたい性質があります。恥や軽く扱われること、仕えることを嫌います。

神様はどんなこともおできになります。しかし、神様は十字架による道によって、人間を救おうとされました。

イエス様は父なる神様に従順に従われました。私たちも神様の言われることに素直に従う時に苦しみがあるかも知れません。しかしそこを通って与えられる神様のご計画があります。そこに本当の解決と喜びがあります。信仰によって神様に対して生きるなら、私たちは人生の勝利者です。すべてを失っても信仰ひとつで神様につながる希望と愛をもつことができるのです。

まことに神様に信頼するならば、問題の解決の時に感謝するだけでなく、問題の最中にあっても神様に希望を告白できるのです。

ペテロはイエス様と一緒に父の声を聞きました。私たちもイエス様と共にいるなら、神様の声を聞くことができます。罪なきお方であるイエス様は十字架の苦難のしもべとして神様の栄光をあらわされました。

あなたを罪から救うためです。あなたが新しく生きるためです。

生き方を教えてくださるイエス・キリスト

マルコの福音書8章35-9章1節より

2020年10月11日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

今ほど物質的に豊かな時代はありません。しかし、今ほど心が貧しい時代もないのかも知れません。人々はつながりと愛を求めています。

どう生きるべきか。その答えは人間の内にはありません。その答えは私たち人間を愛して命をお与えになった神様だけがご存知です。

命は人間のものではなく、神様とそのひとり子であるキリストの内にあります。このキリストが十字架の死と復活により罪と死に打ち勝ったことを信じる者はまことの永遠の命を与えられます。闇から光、死から命に移されます。

人間は生きていて、やがて死ぬのではないのです。アダムの堕落によりすべての人は死んでおり、しかしキリストを信じる者はまことに生きる者とされるのです。

自分の命を愛して自分のためだけに生きることは、人間の本来の生き方ではありません。

今は罪と悪が溢れており邪悪な時代と聖書は言います。今だけを自己中心に罪の中を生きるなら、やがて来る永遠の刑罰である滅びが待っています。しかしキリストを信じる者は今ではなく、やがて来る永遠のために今を生きることができるのです。

たとえ、キリストに従うために、命を失うことがあっても、そのものは永遠に生き続けます。キリストの言葉に従う者は真理を知り、自由が与えられます。

それはこの世の罪の奴隷として生きる自由ではなく、信仰により、いかなる状況になろうとも神様を信じて感謝して喜び生きる自由です。

恐れることは何もありません。永遠にキリストがあなたと共におられます。

自分を捨て、十字架を負い生きる

マルコの福音書8章31-38節より

2020年10月4日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様は弟子たちにご自身が苦しみを受け、十字架で殺されることを明らかにされます。

十字架とはキリストの受難と呼ばれる人間の罪を身代わりに受ける苦難の死です。

ペテロはそのことを認められません。それは神よりも人のことを第一に思う人間の罪の性質です。

十字架とは人間の尊厳を辱めるものです。恥やさげすみ、プライドを傷つけられることは人間がもっとも嫌うことです。しかし、神の御子で罪なきイエス様は十字架に従われました。

イエス・キリストを信じることは、その十字架が自分の罪のためであると信じることです。

苦しみ、悩み、痛みを通して、真の人間の姿でもあるイエス様に似た者とされていきます。キリストの十字架を受け止め、そこから本当の救いである、キリストの復活にあずかるようになるのです。

ユダヤでは昔、十字架刑を受ける者は、数十キロもある十字架を背負って、死刑場まで運んでいきました。私たちもまた、人生の重荷を背負って生きていくものです。

けれども、その重荷をイエス様にゆだねて、生きるなら、その重荷は次第に軽くされ、キリストの十字架をともに負う者と変えられます。

その十字架はいつしか、あなたの人生に関わる人々の中で、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制と言ったキリストの命をあらわしていくでしょう。

あなたのうちにあるキリストの御霊である命は喜び満たされ、神さまの素晴らしさを輝かせる永遠につながる人生を歩んでいきましょう。