マルコの福音書15章16-21節より
2021年6月20日主日礼拝メッセージ
イエスは十字架に付けられる前にむち打たれ、ローマの兵隊から暴力を受け、からかわれ、辱めをうけます。最も尊敬されるべき神様が、最も残酷な十字架で罪人として扱われ、殺されたのです。血まみれで傷だらけのお姿は誰もが顔をそむけるようでした。
人間は人前で恥をかくことを嫌います。恐れます。それは弱さやコンプレックスをからかわれたり、存在を無視されたり、勝負に負けることかも知れません。
いい暮らし、いい学校、いい会社をめざすのも、恥ずかしい生き方をしないためです。
しかし、恥ずかしいという思いは外見のことではなく、人間の内面から来ています。最初の人アダムが神に背いた時に、神から離れた罪深い恥ずかしい自分の姿を知ったことが原因です。彼はいちじくの葉を腰につけ、それを隠しました。
すべての人はいろんなプライドによって恥を隠そうとしたのです。しかし、それは問題の解決ではありません。恥は罪の負い目から来ています。罪を犯した神を恐れて隠れたことが原因です。その罪の解決のためにキリストは十字架で死んでくださいました。人には言えないどんな恥ずかしい姿もキリストはご存知で、そのありのままの自分を受け入れてくださっています。キリストに赦された自分を受け入れることによって、はじめて自分を愛するができるのです。ありのままの自分を生きていくことができるのです。
クレネ人シモンは、十字架に向かわれるキリストに出くわし、無理やりキリストの十字架を負わされます。なんということだと最初は嘆いたことでしょう。しかし、血まみれで傷ついて、耐えられるキリストのお姿を見ているうちに、重い十字架を背負わされている自分の苦しみよりも、キリストがまことの救い主であることを信じたことでしょう。人前で十字架を背負わされた恥ずかしい自分からキリストへと心が変えられたのです。
キリストの十字架はすべての人の罪の赦しです。その神の働きをクレネ人シモンは手伝うことができたのです。キリストの苦しみをわずかでも味わい、キリストの重荷を助けることができたのです。十字架がシモンとキリストをつなげてひとつにしたのです。
無視されたり、誰かに打ち負かされたり、プライドを傷つけられることがあっても、あなたのために十字架で苦しまれたキリストは、あなたのために満足され喜んだお姿だったのです。キリストはあなたが信じて救われることを心から願っているのです。キリストはあなたを愛されています。
「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
(ペテロの手紙第Ⅰ2章20-25節)