自分を偽らずに心の貧しさを悲しむ者は幸いです。神の国はそのような人のものです

マタイの福音書5章1-3節より

2021年10月3日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書には「心の貧しい者は幸いです。」とあります。この「貧しい」の意味は、文字通り無一文の極度のみじめな貧困の意味です。さらに言語では、貧しさのために、何の栄誉もなく、人からしいたげられ、この世から見捨てられた結果、すべての希望を神にかける人を意味します。

人の心にあるものが言葉や行いとなって、罪深い現実が見える形となり世界中で現れているのです。人の心から出るものとは「悪い考え、結婚以外の性行為、盗み、殺人、貪欲、欺き、好色、ねたみ、高ぶり、愚かさ」と聖書にあります(マルコ7:20-23)。

また使徒パウロは、自分がしたい善ではなく、かえって悪を行ってしまうことにより、自分の中にどうにもできない罪深い性質が宿っていることを告白しています。

罪深い自分の心の貧しさを認め、悲しむものは、この世の物質は何の助けにもならないことを知っています。罪人である人間は自分を罪から救い出すことはできません。唯一キリストだけが人の罪を赦し、きよめることができるお方なのです。

金銭や快適な生活を手に入れたのに、虚しく満たされない人のように…、大切な関係を失い、故郷から遠く離れて途方に暮れている人のように…、家族や友から離れ、愛することも、愛されることもなく悲しんでいる人のように…、自分の恥や汚れや罪を隠して生きたために、人生の喜びも意味も失くしてしまった人のように…

すべての人は神から離れ、神の愛を知らず、神に対して犯した罪に苦しんでいるのです。

人間は物質ではなく霊的な存在です。人は神に似せて創造された高価な存在です。人生の目的はパンではなく神です。神のもとに帰ることです。人間は神との人格的な生きた関係が絶対に必要なのです。その神の言葉に従って生きるとき、人間は初めて満たされ、喜びが生まれ、人生に意味と目的が与えられます。

自分のためだけに生きるなら、永遠に続く喜びはありません。人間の命は互いの誰かのために存在しています。神に似せて創られた人間とは互いに愛し合い、助け合い、自分がしてほしいことを他の誰かにする存在です。そのとき人は本来の喜びに満たされ、神の言葉により神の国に生きることができます。

キリストは十字架で人間の罪の刑罰の身代わりとなられ、死んでくださいました。私たちを神の子どもとし、天の御国の相続、永遠の命を与えるためです。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

(コリント人への手紙第 8章9節)