エペソ人への手紙2章1-10節より
2021年11月21日主日礼拝メッセージ
聖書には決定的な死生観があります。それはキリストなき人生がどれほど恐ろしいかです。罪とは殺人や窃盗、詐欺などを考えますが、聖書の言う罪とは「的を外す」こと意味します。人間として本来あるべき姿からかけ離れていること、人生の道を大きく踏み外して本来の目標に到達できないことです。
罪によって遠い将来、死後にさばきが下るのではありません。罪は今、現在、人間を殺す力があるのです。人は罪を犯した後と以前ではまったく同じ状態ではいられません。決して罪は消えることはなく、忘れても気づかなくても、いつまでも残るのです。罪により人は初めの純潔を失っていきます。また、罪は最初は恐れ震えながら犯します。しかし、次回はより平気に犯します。罪は感覚を麻痺させます。そして罪の後悔だけでなく、罪の最中にも、もはや楽しみは失われます。罪は人生の大切な価値を失わせます。そして、罪は習慣となり、いつしか罪の奴隷状態になります。罪をやめる人間の意志は無力で、以前の罪のためにさらなる罪を求めるようになります。罪の代償はあまりにも大きいのです。罪の代価は死です。
キリストなき人生のしるしは、この世の基準や価値に生きることです。神が与えた本来の価値を無視して、この世の物事や利潤に人間を合わることです。また悪魔に支配されて生きることです。悪魔は本来の神のよい計画から人間を離れさせ、人間の魂を破滅させます。また、欲望のなすがままの生活、悪いこと、禁じられていることに対する欲望で人生を破滅させます。神なき人生の本性、人間の内にある肉の性質に罪を犯すように働きかけます。神の怒りを受ける価値しかない生活です。
しかし、そんな絶望しかない人間を神は愛し、あわれみ、キリストと共に生かし、よみがえらせてくださいます。なぜでしょうか。それは神の偉大な恵みが世界に、後の世代に永遠に示されるためです。キリストを信じる信仰は個人の幸福や、ご利益ではなく、神さまの愛と赦しの偉大さが明らかにされるためです。本当に人間の素晴らしさを人々が喜んで生きるためです。
救いは努力や行いではなく、神の一方的な恵みによります。神が人を罪の中から救う恵みは誰にでも、ばらまかれるのではありません。信仰によって、救うべき者に確実に渡されるのです。「恵み」とは莫大な水の貯水池であり、その水を有効に、正確に実際に配給する水道管が「信仰」です。
神との関係が回復した者は、今まで思いも及ばない良い行いを思いつき、それを行うことができるに至るのは、キリストとともに新しく創造されたからです。救いに始まった、神の再創造はキリストに似た者に変え続けます。 恵みはただで受けることができます。それはキリストがあなたの罪の贖いの代価を十字架で支払ってくださったからです。このキリストの愛、命をかけた尊い救いにより人は必ず罪から離れきよめられ、愛のわざ、よい行いをする者に変えられます。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
(コリント人への手紙第二5章17節)