愛に生きる。それだけが真理の道

ヨハネの手紙 第一3章19-24節より

土山みことばキリスト教会

2022年3月27日

すべての人は幸せな価値ある人生を願っています。しかし、そうなるように息つく暇も忘れて頑張っても、うまくいかないのです。もちろん喜びもありますが、何か満たされずにむなしいのです。

今朝の聖書箇所では、そんなあなたが揺るぎない、真実な神さまとしっかりつながって生きることができると言うのです。

それは、どうすればいいのでしょうか。それは、①聖書に書かれているキリストをありのまま、そのまま信じること。②そして、神さまの命令である、互いに愛し合いなさいということを守ることです。その他の方法では無理なのです。人間が考えた方法では神さまの真理には到達しないのです。

愛すると言っても口先だけではいけません。真心から行いと言葉によって愛するのです。好きだという感情の愛ではなく、言葉、態度、行いで、自分にとって大切なものを与えるように人を愛することです。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(Ⅰコリント13:4-8)

それができたかどうか、結果は問題ではありません。何より心から愛そうとすることなのです。心から願うことです。

神さまはあなたの心の中のすべてをご存知です。あなたが何かを話す前に、あなたの心や動機をご存知です(詩篇139:4)。

愛そうとしたなら、あなたはもう自分の感情や思いがどうであったとしても、神さまの約束を信じなければなりません。自分には愛がない、口先だけだなどと自分を責めてはいけません。

神さまを信じる者は、まず、神さまがいつもあなたと共におられるお方であることを信じます。そして聖書のみことばは神様の真実であることを信じます。その後で、あなたの心の思いが生まれるのです。愛、喜び、平安です(ガラテヤ5:22-23)。

あなたが心から願うことは何ですか。神さまがあなたを愛して、キリストがあなたの人生がむなしいものとならないように、十字架で死んでくださったことを知ったとき、あなたが心から願う夢はなんでしょうか。希望はなんですか。

罪のことをいつも考えて悩んで苦しんでいたあなたが、キリストを信じて、愛することや家族や、友、関係の大切さを覚える者に変えられていくことに気づくでしょう。キリストを信じる者は罪への思いから、愛への思いへと変えられるのです。

そこには悩みも試練もあるでしょう。しかし、人とのかかわりの中で、苦しみもがき、キリストが十字架で通られたみ苦しみを体験していくのです。キリストを信じることは知識や頭の理解ではないのです。愛に生きることなのです。

愛の反対は憎しみではなく、人に無関心な生き方、自分のためだけに生きることです。そこには成長も喜びもありません。キリストを愛するとき人生は変えられます。これも神さまの方法により愛することが必要です。自分の大切なものを捧げる礼拝です。神さまと人との交わりです。そこにまことの喜びがあるのです。

最高に価値あるもの

ヨハネの手紙 第一3章12-18節より

土山みことばキリスト教会

2022年3月20日

神さまの存在は悪人に罪の自覚を与えます。同じように神さまを信じる者の生き方が、罪人たちに反感をもたせます。クリスチャンは地の塩、世の光です。

悪魔は24時間365日、罪の中にいます。しかしキリストはいつも愛と正しさをお持ちです。憎しみは、自分の悪を隠すために人を殺します。愛は、人の罪のために命を捨てます。

人類最初の殺人は兄弟殺しでした。兄のカインは悪魔に属する者で、神さまに属する弟のアベルを殺害しました。

カインは殺人の罪の重荷を負いきれないと神さまに赦しを願います。神さまは、カインに赦しのしるしを与えられ、彼を救います。

この出来事は、罪人に対する神のあわれみを表わしています。神さまの罪に対する厳しさと同時に、神さまの愛による、ひとり子キリストの十字架の罪の身代わりによる赦しです。

愛とは一体何でしょうか。聖書には神は愛とあります(Ⅰヨハネの手紙4:8)。神さまはあなたの罪を赦すためにキリストを十字架につけてくださったことにより、私たちは神さまの愛を知ることができます(ローマ5:8)。

キリストはたましい(ギリシャ語のプシューケー:最高に価値ある命の意味)を十字架で捧げてくださいました。

あなたが罪から離れ、命を豊かにするために、ご自身の価値ある命を捧げてくださいました。カルバリの十字架の上で死なれたキリストを知るとき、すべての人は神の愛がわかるのです。

罪赦された者は、日々、自分のもてる最高のものを捧げて生きていく者とされます。愛とは自分の価値あるものを相手に与えることです。愛を行う者は死から命へ移された者です。人がまことに生きる姿です。

最高の愛、キリストの愛を生きる姿を通してあらわして、キリストの愛を伝える者として。

あなたは神さまにとって最高に価値のある存在なのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書34:4)