コリント人への手紙第一2章1-5節より
2022年11月6日
<聖書>
さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
(コリント人への手紙 第一2章1-5節)
<説教>
パウロはコリントへ来る前にアテネで宣教しましたが、そこでは、ギリシャ哲学に対して、哲学的にイエスの救いを伝えようとしました。その結果、失敗し、弱さと恐れを覚えていました。パウロは、説得力のある知恵や知識によらず、まっすぐに十字架につけられたキリストを宣べ伝えることに立ち返ったのです。
神さまが用意された福音(イエスの十字架を信じるなら救われる)が語られる時、聞く者に神さまが働かれて、人は救われます。
救われた者は、神に与えられた信仰によって生きていきます。信仰とはイエス・キリストを信じることだけでなく、積極的に自分を神さまにお任せしていくことが必要です。自分の信念だけでは足りないのです。
聖書が言う罪とは、悪い行いや、邪悪な考えだけではありません。むしろ、それらにつながる人間の本質が罪深く汚れている状態を言います。また、この世は人を罪に誘惑する罪の力が働いています。
この罪の治療方法には人間の本質を造り変える力が必要です。その力は人間の内側にはなく、神の力によるのです。誘惑の力に立ち向かう神の助けが必要です。クリスチャンとして生きるということは、自分の努力や頑張りだけでなく、この神の力と助けが必要です。
バルーン(熱気球)は空高く、遠くまで人を運ぶことができます。しかし、あなたがこのバルーンから垂れ下がったロープにつかまるとしたら、どうでしょうか。バルーンが地上から徐々に浮き上がっていきます。50cm、1m、2m…、次第に高く地上から5m、10mと上昇したら、もうあなたは怖くて、もう地上に戻ってくれ!と叫ぶことでしょう。しかし、バルーンからぶら下がった安全なカゴに乗るとしたら、高く舞い上がっても恐怖はないでしょう。あなたは人間の力では不可能な高さから地上の景色を楽しむことでしょう。
信仰もそのようなものと言えます。自分の力ではなく、神の力を受けて、自分の力では到達できない人生を生きることができます。自我や自己中心、罪深い欲望が、キリストの十字架の愛と赦しの中できよめられて、あなたはまったく新しい者に変えられて生きるのです。永遠に残る価値ある悔いなき人生です。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
(ローマ人への手紙1章16-17節)