コリント人への手紙第一2章6-11節より
2022年11月13日
<聖書>
しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
(コリント人への手紙 第一2章6-11節)
<説教>
神のみ言葉、神のご計画、神の御心は、生まれたままの人間にはわかりません。
キリストの福音(あなたの罪の身代わりに十字架で死なれたキリストを信じるなら救われる)は隠された奥義なのです。
イザヤ書の40-66章は聖書中、最も卓越したメッセージであると言えます。罪からの解放と新天新地の永遠の希望が語られています。その中の重要な箇所が、「第4のしもべの歌」と言われるイザヤ書52章13節から53章12節です(ちなみに第1のしもべの歌はイザヤ42:1-9、第2のしもべの歌はイザヤ49:1-6、第3のしもべの歌はイザヤ50:4-9です)。
ここには、新約聖書の福音書以上に、苦難のしもべのキリストの十字架の受難が記されています。そして、またキリストの十字架の意味は誰もわからないと書かれています。
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
【主】の御腕は、だれに現れたのか。」 (イザヤ書53:1)
【主】の御腕とは、神の力を表わしています。この神の力によって、人は神の言葉を信じることができるのです。神の啓示(神がご自身を明らかされる)によってのみ、人は回心して、罪を悔い改めて、救われるのです。
聖書によると人間の本質(あなたがあなたであること)は霊にあります。霊は魂をもち、体に住んでいるのです。
体(感覚)や魂(感情)でなく、霊で神を知るのです。霊によって神との交わりを持つのです。体はこの地上の一時的なものであり、やがて朽ちていきます。霊こそが癒され、養われることを覚えなければならないのです。
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」
(ヨハネ3:6)
キリストを信じるなら、霊的に新しく生まれ変わることができます(体の生まれ変わりではありません)。外から見ただけでは、その人の内側で何が起こったかわかりません。しかし、時が経つとはっきり現れてくるのです。
神を信じるとは神の言葉を信じることです。神の言葉を通して、内なる霊の人は罪からきよめられ、癒され、愛に生きる者へと変えられ続けます。イエス様を信じるなら、いつしか心が変えられていることに気付くでしょう。また言葉も優しく変えられるでしょう。きっと、表情や笑顔も。そして、自分のことを愛することができ、どんな小さなことも大切に愛おしく思え、人生はかけがえのない宝物とされます。イエス様はどんな時もあなたを愛されています。
あなたもイエス様を迎えいれて、この素晴らしい祝福を受け取ってください。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネ3:16)
くりかえせない人生だから
輝く瞬間を逃さないで
かけがえのないものを見つけ
できれば愛と呼べる家に住み
微笑みながら
自由という町を歩き
痛みと言う歩道に座り
優しさが弱さではなくて
仕えることに道を探し
むやみに言葉を並べず
愛することを学びながら
ゆるせる心育てながら
言葉遊びにならぬように
真実と呼ばれる小径をずっと
歩いて行きたい
それが願い
(「願い」岩渕まこと)