信仰は宝

マタイの福音書8章5-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年1月15日

<聖書>

イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)がみもとに来て、懇願(こんがん)して、言った。「主よ。私のしもべが中風(ちゅうぶう)で、家に()ていて、ひどく(くる)しんでいます。」イエスは彼に言われた。「行って、(なお)してあげよう。」しかし、百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)(こた)えて言った。「主よ。あなたを私の屋根(やね)の下にお入れする資格(しかく)は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは(なお)ります。と申しますのは、私も権威(けんい)の下にある者ですが、(わたし)自身(じしん)の下にも兵士(へいし)たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、(べつ)の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて(おどろ)かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに()げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰(しんこう)を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国(みくに)で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓(しょくたく)に着きます。しかし、御国(みくに)の子らは外の(くら)やみに放り出され、そこで()いて()ぎしりするのです。」それから、イエスは百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)に言われた。「さあ行きなさい。あなたの(しん)じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)8章5-13節)

<説教>

この百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は、次の2つのことでイエスを(おどろ)かせました。①(あい)の人であった。②信仰(しんこう)の人であった。

当時のユダヤ社会は人種(じんしゅ)階級(かいきゅう)性別(せいべつ)教育(きょういく)信仰(しんこう)などの(ちが)いによるひどい差別(さべつ)がありました。奴隷(どれい)は人間として見なされず、使(つか)()ての道具(どうぐ)(あつか)われました。その命も主人(しゅじん)の自由にされていました。

そんな現実(げんじつ)の中にも(かか)わらず、この百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)病気(びょうき)で死にそうな奴隷(どれい)を助けるために行動しました。(あく)罪深(つみぶか)い世の中で正しく生きるために、(かみ)は人に信仰(しんこう)(あた)えられます。

しかし、(けが)れた罪人(つみびと)とみなされた異邦人(いほうじん)百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は、イエスに近づくことができませんでした。その(かべ)()(やぶ)ったのは彼の信仰(しんこう)でした。百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)はイエスと会わなくても、イエスが彼の瀕死(ひんし)のしもべに()れなくても、ただイエスのことばによって、しもべは(いや)されて生きると(しん)じました。

信仰(しんこう)は、(よわ)い者を(つよ)くし、現実(げんじつ)しか見えない者の目を開き、プライドを(くだ)(あい)の人と()え、(つみ)(けが)れた者をゆるし、きよめます。十字架(じゅうじか)で死なれたイエスを目撃(もくげき)しなくても、信仰(しんこう)によって(かみ)のみ言葉(ことば)真実(しんじつ)(しん)じる者は(すく)われます。

信仰(しんこう)はイエスによって(あた)えられ、完成(かんせい)されました。イエスは十字架(じゅうじか)でよみがえられ、(つみ)と死に()ち勝ち、よみがえられました。

信仰(しんこう)知識(ちしき)ではありません。(かみ)はありふれた人間関係の中に、(かみ)御心(みこころ)目的(もくてき)計画(けいかく)(おし)え、あなたがどう(こた)えるかを()っておられます。(かみ)信頼(しんらい)して、(かみ)を知り、体験(たいけん)して、無限(むげん)信頼(しんらい)へ…信仰(しんこう)者は神の莫大(ばくだい)(たから)勝利(しょうり)(あたえ)られています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11:6)

恵みは神から

ピリピ人への手紙3章3-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年1月8日

<聖書>

(かみ)御霊(みたま)によって礼拝(れいはい)をし、キリスト・イエスを(ほこ)り、人間的(にんげんてき)なものを(たの)みにしない(わたし)たちのほうこそ、割礼(かつれい)(もの)なのです。ただし、(わたし)は、人間的(にんげんてき)なものにおいても(たの)むところがあります。もし、ほかの人が人間的(にんげんてき)なものに(たの)むところがあると(おも)うなら、(わたし)は、それ以上(いじょう)です。(わたし)八日目(ようかめ)割礼(かつれい)を受け、イスラエル民族(みんぞく)(ぞく)し、ベニヤミンの()かれの(もの)です。きっすいのヘブル人で、律法(りっぽう)についてはパリサイ人、その熱心(ねっしん)教会(きょうかい)(はく)(がい)したほどで、律法(りっぽう)による()についてならば非難(ひなん)されるところのない(もの)です。しかし、(わたし)にとって(とく)であったこのようなものをみな、(わたし)はキリストのゆえに、(そん)(おも)うようになりました。それどころか、(わたし)(しゅ)であるキリスト・イエスを()っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを(そん)(おも)っています。(わたし)はキリストのためにすべてのものを()てて、それらをちりあくたと(おも)っています。それは、(わたし)には、キリストを()、また、キリストの中にある(もの)(みと)められ、律法(りっぽう)による自分(じぶん)()ではなくて、キリストを(しん)じる信仰(しんこう)による()、すなわち、信仰(しんこう)(もと)づいて、(かみ)から(あた)えられる()を持つことができる、という(のぞ)みがあるからです。

(ピリピ人への手紙(てがみ) 3章3-9節)

<説教>

お金、美貌(びぼう)才能(さいのう)があっても、生きているのが(むな)しい人たちがいます。パウロは当時(とうじ)のユダヤ社会(しゃかい)では完璧(かんぺき)なエリートでした。完全(かんぜん)人生(じんせい)を歩んでいました。

しかし、パウロはイエス・キリストを(にく)んでいました。彼の生きる目的(もくてき)はクリスチャンを殺害(さつがい)してこの()から()()ることでした。そんな生き方に平安(へいあん)(よろこ)びもあるはずがありません。

パウロは(かみ)律法(りっぽう)十戒(じっかい)代表(だいひょう)される旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)命令(めいれい))に厳格(げんかく)(つか)えました。そういう意味(いみ)では、パウロは(かみ)(ただ)しいと(みと)められる、(すく)いを()けるに一番(いちばん)ふさわしい人物(じんぶつ)でした。

聖書(せいしょ)によると、すべての人は罪人(つみびと)です。それはキリストを(あい)さずに、いいえキリストに反抗(はんこう)していると言う意味(いみ)罪人(つみびと)なのです((つみ)とは(かみ)に対する意識的(いしきてき)反逆(はんぎゃく))。自分では、善人(ぜんにん)だと思っても、道徳的(どうとくてき)(ただ)しく生きても、この()では(ただ)しくても(かみ)(ただ)しさには(いた)らないのです。

()(ただ)しい関係(かんけい))には①道徳的(どうとくてき)()と②(かみ)()があります。道徳的(どうとくてき)(ただ)しさは素晴(すば)らしいことです。ぜひそのように生きるべきです。しかし(かみ)()をいただくには、キリストが十字架(じゅうじか)であなたの(つみ)のために()なれたことを(しん)じる()(がい)ありません。それだけが(すく)われて(かみ)和解(わかい)して(てん)御国(みくに)に入る方法(ほうほう)です。

キリストを(しん)じる(すく)いは、死後(しご)天国(てんごく)に行く時だけでなく、今の生き方すべてが(よろこ)びと平安(へいあん)希望(きぼう)()えられます。

(かみ)はあなたを(つく)られた方です。(かみ)はいつもあなたを(おぼ)えて(とも)にいてくださいます。(かみ)はあなたの問題(もんだい)解決(かいけつ)()っておられます。(かみ)はあなたの将来(しょうらい)祝福(しゅくふく)約束(やくそく)されています。

(つみ)(ゆる)し」とは(うす)っぺらい言葉ではありません。キリストの(あい)(まじ)わりによってあなたを内側(うちがわ)から(あい)(せい)()の人に()える(いのち)です。それは宗教(しゅうきょう)ではなく生き方です。(かみ)がくださる(のぞ)みです。(のぞ)みは(かみ)(そな)えたキリストの十字架(じゅうじか)にあります。