ピリピ人への手紙3章3-9節より
2023年1月8日
<聖書>
神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
(ピリピ人への手紙 3章3-9節)
<説教>
お金、美貌、才能があっても、生きているのが虚しい人たちがいます。パウロは当時のユダヤ社会では完璧なエリートでした。完全な人生を歩んでいました。
しかし、パウロはイエス・キリストを憎んでいました。彼の生きる目的はクリスチャンを殺害してこの世から消し去ることでした。そんな生き方に平安も喜びもあるはずがありません。
パウロは神の律法(十戒に代表される旧約聖書の命令)に厳格に仕えました。そういう意味では、パウロは神に正しいと認められる、救いを受けるに一番ふさわしい人物でした。
聖書によると、すべての人は罪人です。それはキリストを愛さずに、いいえキリストに反抗していると言う意味で罪人なのです(罪とは神に対する意識的な反逆)。自分では、善人だと思っても、道徳的に正しく生きても、この世では正しくても神の正しさには至らないのです。
義(正しい関係)には①道徳的な義と②神の義があります。道徳的な正しさは素晴らしいことです。ぜひそのように生きるべきです。しかし神の義をいただくには、キリストが十字架であなたの罪のために死なれたことを信じる以外ありません。それだけが救われて神と和解して天の御国に入る方法です。
キリストを信じる救いは、死後の天国に行く時だけでなく、今の生き方すべてが喜びと平安と希望に変えられます。
神はあなたを造られた方です。神はいつもあなたを覚えて共にいてくださいます。神はあなたの問題に解決を持っておられます。神はあなたの将来の祝福を約束されています。
「罪の赦し」とは薄っぺらい言葉ではありません。キリストの愛の交わりによってあなたを内側から愛と正義の人に変える命です。それは宗教ではなく生き方です。神がくださる望みです。望みは神の備えたキリストの十字架にあります。