驚くべき恵み~キリストと共に生かす

エペソ人への手紙2章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月7日

<聖書>

あなたがたは自分の罪過(ざいか)(つみ)との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの(つみ)の中にあってこの()(なが)れに(したが)い、空中(くうちゅう)権威(けんい)を持つ支配者(しはいしゃ)として今も不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中に(はたら)いている(れい)(したが)って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の(にく)(よく)の中に生き、(にく)と心の(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを()けるべき子らでした。しかし、あわれみ(ゆた)かな(かみ)は、私たちを(あい)してくださったその大きな(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが(すく)われたのは、ただ(めぐ)みによるのです──

(エペソ人への手紙2章1-5節)

<説教>

(かみ)(おどろ)くべき、(しん)じがたい(めぐ)みを知るには、人間がいかにひどい状態(じょうたい)なのかを知る必要(ひつよう)があります。

死とはやがて(むか)える未来(みらい)のことではなく、今現在(げんざい)の人間の姿(すがた)こそが()であると聖書(せいしょ)ははっきりと示しています。すなわち、()とは、人間の生命(せいめい)(みなもと)である(かみ)との関係を(うしな)った状態(じょうたい)を言うのです。人間の(れい)は「()んでいる」とか「(よわ)っている」とかではなく、「()んでいる」のです。

人間は(つみ)と共に生まれてきます。その人間は(つみ)支配(しはい)され、奴隷(どれい)とされて、(かみ)(したが)うことができません。人間とは生まれながら(かみ)御怒(みいか)りを()けるべき子どもなのです。この御怒(みいか)りとはすべての人間が死後(しご)()ける審判(しんぱん)のことです。

しかし、(かみ)(あい)は、人間に次のような(しん)じられない(めぐ)みを(あた)えてくださいます。

  • (かみ)への(とびら)(ひら)かれています

道を外れて家出した子どもは、もう帰る家の()はかたく()ざされていると考えるかも知れません。キリストの十字架(じゅうじか)(つみ)(あがな)いによって、(しん)じる者はいつでも(かみ)への和解(わかい)の道が用意(ようい)されています。(かみ)()(あらた)めて(もど)ってくる人間を(よろこ)んで待っておられます。

  • (つみ)によって()んだ理想(りそう)()をともしてくださいます

人間は(つみ)()(かえ)すことによって、人生の気高(けだか)理想(りそう)(うしな)ってしまいます。しかしキリストの(めぐ)みは、()()った理想(りそう)にふたたび()をともします。人生はふたたび生きる価値(かち)あるものとされます。

  • (つみ)によって(うしな)われた意志(いし)に命を()()み新しく(つく)()えてくださいます

(つみ)徐々(じょじょ)に、しかし確実(かくじつ)に人間の(とうと)意志(いし)()(めつ)させてしまいます。(きん)じられた悪いことがやめられなくなり、人間の正しい自由(じゆう)意志(いし)の力を(うば)()ります。そしてまったくなす(すべ)もなく(つみ)(くさり)(しば)られてしまうのです。しかし、キリストは(うしな)われた意志(いし)を新しく(つく)られます。(あい)は人に新しい力を(あた)えるのです。人間の真実(しんじつ)(あい)が人に生きる力を(あた)えるとしたら(かみ)(あい)ははるかにそれ以上です。人はキリストを(あい)するとき、まさに、その(あい)が私たちの意志(いし)(ぜん)()けて新しく(つく)()えるのです。

この素晴(すば)らしい(かみ)(めぐ)み(プレゼント)はすべて無料(むりょう)です。(ゆる)しは、ただ(かみ)一方的(いっぽうてき)(あい)の行いです。人間の(がわ)出来(でき)ることは何一つないのです。

キリストの十字架(じゅうじか)()を、自分の(つみ)身代(みが)わりであると感謝(かんしゃ)して、ただ()()るならば、あなたはこの(めぐ)みをご自分のものとすることができるのです。

信仰によってイエスと生きる

マタイの福音書14章22-33節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月30日

<聖書>

それからすぐ、イエスは弟子(でし)たちを()いて(ふね)()()ませて、自分より先に()こう(きし)へ行かせ、その間に群衆(ぐんしゅう)(かえ)してしまわれた。群衆(ぐんしゅう)(かえ)したあとで、(いの)るために、ひとりで山に(のぼ)られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、(ふね)は、(りく)からもう何キロメートルも(はな)れていたが、風が()かい風なので、(なみ)(なや)まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは(みずうみ)の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子(でし)たちは、イエスが(みずうみ)の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊(ゆうれい)だ」と言って、おびえてしまい、(おそ)ろしさのあまり、(さけ)(ごえ)を上げた。 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。(おそ)れることはない」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「(しゅ)よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお(めい)じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは(ふね)から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、(しず)みかけたので(さけ)び出し、「(しゅ)よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を()ばして、彼をつかんで言われた。「信仰(しんこう)(うす)い人だな。なぜ(うたが)うのか。」そして、ふたりが(ふね)()(うつ)ると、風がやんだ。そこで、(ふね)の中にいた者たちは、イエスを(おが)んで、「(たし)かにあなたは(かみ)の子です」と言った。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)14章22-33節)

<説教>

このお話しは、イエスが5つのパンと2匹の魚から5千人に食事(しょくじ)(あた)えた奇蹟(きせき)の後の出来事(できごと)です。

弟子(でし)たちは、真夜中(まよなか)の海で向かい風と強い(なみ)悪戦苦闘(あくせんくとう)していました。そんな弟子(でし)たちを(なぐさ)めるためにイエスは海の上を歩いて弟子(でし)たちに近づきました。

(つか)()った弟子(でし)たちは、昼間の奇蹟(きせき)を忘れて、イエスを幽霊(ゆうれい)()間違(まちが)って(おそ)れます。イエスは弟子(でし)たちに言われます

「しっかりしなさい。わたしだ。(おそ)れることはない」

これは現実(げんじつ)問題(もんだい)(おそ)れてしまう私たちへのイエスのおことばです。どんな状況(じょうきょう)の中であってもイエスを(しん)じることだけがあなたを(まも)ってくれるのです。

イエスのことばを(しん)じたときペテロの(おそ)れは()え、イエスだけを()()ぐに見て水の上を歩くことができました。しかし、その直後(ちょくご)に風と(なみ)を見たとき彼の心に(おそ)れが生まれ、海に(しず)みそうになります。(しん)(つづ)けることが(むずか)しいのです。

科学(かがく)では人間は絶対(ぜったい)に水の上を歩けません。重力(じゅうりょく)浮力(ふりょく)法則(ほうそく)(さか)らうことができないからです。この天地(てんち)万物(ばんぶつ)(つく)られた(かみ)を信じる者は(さいわ)いです。(かみ)は見えるものだけでなく、時間や光、力やあらゆる物理(ぶつり)法則(ほうそく)(さだ)められました。

しかしイエスを(しん)じる信仰(しんこう)は、重力(じゅうりょく)浮力(ふりょく)(さか)らって水の上を歩くより(おどろ)くべきことです。それは人間にはどうすることもできない(つみ)の力、人間をがんじがらめにしている(つみ)(くさり)からの解放(かいほう)です。イエスが十字架(じゅうじか)で死んでくださり、よみがえられたことで、(つみ)の力はもう()()られたのです。イエスを(しん)じるなら、(つみ)の力はもうあなたを(ふか)(やみ)(しず)めることはできません。

水の上を歩くよりも不思議(ふしぎ)な道です。それは目には見えない、どこを(さが)しても見つからない信仰(しんこう)という小さい門、イエスと共にしか歩めない真理(しんり)という(せま)い道を生きることです。

そのようにイエスを信じて(すく)われた者も何度(なんど)何度(なんど)失敗(しっぱい)します。しかしイエスに(したが)う者は(かなら)(たす)けられ、そこから立ち上り、前へ前へと進んでいくことができるのです。その道は天国につながっています。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書14:6)