山上の垂訓‐心の貧しい者は喜びなさい

マタイの福音書5章1-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月18日

<聖書>

この群衆(ぐんしゅう)を見て、イエスは山に(のぼ)り、おすわりになると、弟子(でし)たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を(ひら)き、彼らに(おし)えて、言われた。

「心の(まず)しい者は(さいわ)いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだから。
(かな)しむ者は(さいわ)いです。その人たちは(なぐさ)められるから。
柔和(にゅうわ)な者は(さいわ)いです。その人たちは地を()()ぐから。
()()(かわ)く者は(さいわ)いです。その人たちは()()りるから。
あわれみ(ふか)い者は(さいわ)いです。その人たちはあわれみを()けるから。
心のきよい者は(さいわ)いです。その人たちは(かみ)を見るから。
平和をつくる者は(さいわ)いです。その人たちは(かみ)の子どもと()ばれるから。
()のために迫害(はくがい)されている者は(さいわ)いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだから。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)5章1-10節)

<説教>

マタイの福音書(ふくいんしょ)の5章から7章は「山上(さんじょう)垂訓(すいくん)」と言われる長い説教(せっきょう)です。これはイエス様が語られたいろいろな説教(せっきょう)をまとめたものです。イエス様はこのような(おし)えを弟子(でし)たちに()えず、習慣的(しゅうかんてき)(おし)えられました。

内容(ないよう)はとても高い(かみ)道徳(どうとく)基準(きじゅん)であり、人間が(まも)ろうとして(まも)れるものではありません。

たとえば、「人を(にく)んではならない」、「情欲(じょうよく)をもって異性(いせい)を見てはならない」、「人前(ひとまえ)善行(ぜんこう)してはならない」、「人をゆるしなさい」、「自分の(たから)(てん)にたくわえなさい」、「何を食べるか心配(しんぱい)してはいけない」、「人をさばいてはならない」「自分の(てき)(あい)しなさい」など。

これらの(おし)えによって、人は自分が(つみ)(おか)したことを知ります。(かみ)さまは自分が(けっ)して正しくないことを気付(きづ)かせてくれるのです。これらの(おし)えは本来(ほんらい)の人間の姿(すがた)(かみ)さまが(つく)られた人間の姿(すがた)を表わしています。(かみ)さまを信じて生きる時に、(かみ)さまがそのような人間、イエス様に()た者に(つく)り変えてくださるのです。

「心が(まず)しい人」とはどういう意味(いみ)でしょうか。

それは、あまりにも(まず)しくて、力も地位(ちい)(だす)けもなく、人や社会(しゃかい)から()められ見放(みはな)されて、すべての希望(きぼう)(かみ)にかける人のことです。

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)詩篇(しへん)にも、次のようにあります。

「この(なや)む者が()ばわったとき、【(しゅ)】は聞かれた。こうして、(しゅ)はすべての(くる)しみから彼を(すく)われた。」
詩篇(しへん)34:6)

(まず)しい者は(けっ)して(わす)れられない。(なや)む者の(のぞ)みは、いつまでもなくならない。」
詩篇(しへん)9:18)

詩篇(しへん)の中の(まず)しく(なや)む者とは、(かみ)に近づいて(かみ)(よろこ)ばれる人のことです。

私たちは財産(ざいさん)貯金(ちょきん)がたくさんあれば、人生が安全(あんぜん)保障(ほしょう)されると思っていました。(しあわ)せの多くがそのようなものだと考えていたかもしれません。

しかし、自分が人からある意味(いみ)見放(みはな)された存在(そんざい)であると知り、心から全力(ぜんりょく)(かみ)さまに信頼(しんらい)する者は次のことを知るのです。

  • 物への執着(しゅうちゃく)がなくなっていく。物質(ぶっしつ)が人間に幸福(こうふく)安全(あんぜん)(あた)えるのではない。
  • (かみ)さまだけが自分を(たす)け、(のぞ)みと力を(あた)えることができる。

私たちの本当の問題(もんだい)は、貧乏(びんぼう)でみじめか、お金や物があって裕福(ゆうふく)かどうかなのではありません。それらは第一ではなく、実は自分(じぶん)自身(じしん)の内には、生きる希望(きぼう)(すく)いがまったくないと知ることなのです。

人間は(よわ)く、小さく、罪深(つみぶか)い者なのです。(かみ)さまを必要(ひつよう)とする存在(そんざい)なのです。(かみ)さまを(たよ)って、(たす)けられなければ、罪深(つみぶか)い生き方から本当の人間として生きることはできません。

自分のありのままを()け入れてくださる(かみ)さまを信頼(しんらい)しましょう。そのとき本当の自分のすべてを(あい)して生きていけるのです。「(かみ)さまと自分を知る」とき本当の人生が始まるのです。

「心の(まず)しい者は(さいわ)いです。」は原文のアラム語では、単調(たんちょう)な文ではありません。「ああ、(さいわ)いなるかな、心の(まず)しき者!」という感動(かんどう)()ちた意味(いみ)です。

この()(よろこ)びは、健康(けんこう)(うしな)われた時、計画(けいかく)失敗(しっぱい)した時、希望(きぼう)がかなえられなかった時にはかなく()っていきます。

しかし、イエス・キリストを(しん)じる者は(ふか)(しず)かな(よろこ)び、なにものにも変えられない(よろこ)びをもっています。

苦痛(くつう)の中、損失(そんしつ)(かな)しみ、(いた)み、(なみだ)の中にも心に()ち、()すことのできない(よろこ)び、それは()さえも(うば)()ることのできない(よろこ)びです。(つみ)(ゆる)しを()け、(すく)われた者の勝利(しょうり)(さけ)びです。

これはイエス・キリストと共に歩む者だけが持っているのです。

イエス様があなたの(つみ)のために十字架(じゅうじか)()んでくださいました。このお方に何も心配(しんぱい)せずにおゆだねして、(したが)っていきましょう。

神さまは心の動機を見られる

マタイの福音書20章1-16節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月11日

<聖書>

天の御国(みくに)は、自分のぶどう(えん)(はたら)労務者(ろうむしゃ)(やと)いに朝早く出かけた主人(しゅじん)のようなものです。彼は、労務者(ろうむしゃ)たちと一日一デナリの約束(やくそく)ができると、彼らをぶどう(えん)にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場(いちば)に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう(えん)に行きなさい。相当(そうとう)のものを上げるから。』彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中(いちにちじゅう)仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも(やと)ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう(えん)に行きなさい。』こうして、夕方になったので、ぶどう(えん)主人(しゅじん)は、監督(かんとく)に言った。『労務者(ろうむしゃ)たちを()んで、最後(さいご)に来た者たちから(じゅん)に、最初(さいしょ)に来た者たちにまで、賃金(ちんぎん)(はら)ってやりなさい。』そこで、五時ごろに(やと)われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初(さいしょ)の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを()()ると、主人(しゅじん)文句(もんく)をつけて、言った。『この最後(さいご)連中(れんちゅう)は一時間しか(はたら)かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中(いちにちじゅう)労苦(ろうく)()けるような(あつ)さを辛抱(しんぼう)したのです。』しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当(ふとう)なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束(やくそく)をしたではありませんか。自分の分を()って(かえ)りなさい。ただ私としては、この最後(さいご)の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという(ほう)がありますか。それとも、私が気前(きまえ)がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が(さき)になり、(さき)の者があとになるものです。」

(マタイの福音書20章1-16節)

<説教>

ぶどうは雨季(うき)になる前に急いで収穫(しゅうかく)します。雨にぬれるとぶどうが(くさ)ってだめになるからです。そのために多くの働き人が必要となります。イスラエルでは実際(じっさい)に、ぶどう(えん)主人(しゅじん)は朝の市場(いちば)労働者(ろうどうしゃ)募集(ぼしゅう)しました。

朝早く(6時)から一日中(いちにちじゅう)労苦(ろうく)()けるような(あつ)さの中を働いた人たち、9時、12時、午後3時、そして午後5時に一時間だけ働いた人たちがいます。どちらも賃金(ちんぎん)は1デナリでした。

朝早くから仕事を(あた)えられた人たちは、一日(12時間)1デナリの約束(やくそく)をしました。しかし、それ以外(いがい)の人たちは、(とく)労働(ろうどう)条件(じょうけん)があったわけではありません。ただ「それ相応(そうおう)報酬(ほうしゅう)」があると言われただけでした。

また、午後5時に市場(いちば)に立っていた人たちは「(だれ)(やと)ってくれない」と言っています。

しかし、一日の終わりに最後に1時間しか(はたら)かなかった者から順番(じゅんばん)賃金(ちんぎん)支払(しはら)われます。それも1デナリです。12時間(はたら)いた者は不平(ふへい)を言いました。

(あさ)(はや)くから(はたら)いた者たちは、自分たちは労働(ろうどう)契約(けいやく)()わした特別(とくべつ)存在(そんざい)だと過信(かしん)しました。そして、彼らは義務的(ぎむてき)報酬(ほうしゅう)のために(はたら)いのです。

しかし、午後5時からの労働者は、いくら報酬(ほうしゅう)があるかも気にせず、(やと)ってくれた主人(しゅじん)信頼(しんらい)して、お金のために義務的(ぎむてき)(はたら)くのではなく、(よろこ)び、感謝(かんしゃ)姿勢(しせい)がありました。

このたとえ話は、神さまに(つか)えて生きる姿勢(しせい)をあらわしています。神さまを第一にして生きるとき、ただ報酬(ほうしゅう)のためだけに(つか)えるのではなく、神さまに(よろこ)んでいただきたいという姿勢(しせい)が大切です。()()めや、条件(じょうけん)約束(やくそく)だけに(しば)られて(はたら)くのではなく、どのような心の姿勢(しせい)で、また動機(どうき)を神さまは()われるのです。

心が正しければ、(はたら)きも正しくされます。心が利己的(りこてき)貪欲(どんよく)であるなら、(はたら)きも悪いものとなります。わたしたちと神様との関係がどうであるかが大切なのです。

イエス様を信じる者、イエス様のために生きていこうとする者は、自分が思う以上の報酬(ほうしゅう)(あた)えられることでしょう。人間にはその人の(はたら)きを見た目や結果(けっか)でしか判断(はんだん)できません。それは、心の動機(どうき)や心の状態(じょうたい)理解(りかい)することができないからです。 しかし、この地上(ちじょう)の、自己(じこ)中心的(ちゅうしんてき)順序(じゅんじょ)や、この世から(みと)められる優劣(ゆうれつ)は、神さまによってすべて反対にされます。神さまは、物事の結果(けっか)だけでなく、そのプロセス、心を見られるからです。

神さまを(しん)じて(つか)えたら、いくら報酬(ほうしゅう)があるのか、どんな利益(りえき)があるのか。そんなことは何も心配(しんぱい)しなくてよいのです。神さまは、それ相応(そうおう)のよいものをくださいます。

あなたの人生(じんせい)が今までどうであったかは大した問題ではありません。大切なのは、見返(みかえ)りを(もと)めてイエス様を(しん)じるのではなく、イエス様という人格(じんかく)を心から信頼(しんらい)する者を神さまは(よろこ)ばれます。

この地上(ちじょう)人生(じんせい)を終えた後、天の御国(みくに)(むか)()れていただき、神の子どもとしての財産(ざいさん)()()ぎます。もちろんこの地上(ちじょう)の歩みも神様とつながり祝福(しゅくふく)(そそ)がれます。

罪と赦し

詩篇(しへん)51(ぺん)1-12(せつ)より

土山みことばキリスト教会

2023年6月4日

<聖書>

指揮者(しきしゃ)のために。ダビデの賛歌(さんか)。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言(よげん)者ナタンが彼のもとに来たとき

(かみ)よ。御恵(みめぐ)みによって、私に(なさ)けをかけ、あなたの(ゆた)かなあわれみによって、私のそむきの(つみ)をぬぐい()ってください。どうか私の(とが)を、私から(まった)(あら)()り、私の(つみ)から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの(つみ)を知っています。私の(つみ)は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、(つみ)(おか)し、あなたの御目(おんめ)(あく)であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告(せんこく)されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は(とが)ある者として生まれ、(つみ)ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実(しんじつ)を喜ばれます。それゆえ、私の心の(おく)知恵(ちえ)(すく)えてください。ヒソプをもって私の(つみ)(のぞ)いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を(あら)ってください。そうすれば、私は(ゆき)よりも白くなりましょう。私に、(たの)しみと(よろこ)びを、()かせてください。そうすれば、あなたがお(くだ)きになった(ほね)が、(よろこ)ぶことでしょう。 御顔(みかお)を私の(つみ)から(かく)し、私の(とが)をことごとく、ぬぐい()ってください。(かみ)よ。私にきよい心を(つく)り、ゆるがない(れい)を私のうちに(あたら)しくしてください。私をあなたの御前(みまえ)から、()()てず、あなたの聖霊(せいれい)を、私から()()らないでください。あなたの(すく)いの(よろこ)びを、私に(かえ)し、(よろこ)んで(つか)える(れい)が、私をささえますように。

詩篇(しへん)51(ぺん)1-12(せつ)

<説教>

「あなた」と「わたし」と聞いて、何を連想(れんそう)しますか?

聖書(せいしょ)はずばり「神」と「私」の関係です。この詩篇(しへん)51篇の19節中で原語(げんご)では「私」が38回、「あなた」が47回出てきます。

(つみ)(ゆる)しは、たんに懺悔(ざんげ)のような自分一人の独白(どくはく)ではなく、気分的に楽になるのでもありません。神との親密(しんみつ)な関係の中に(たし)かな(ゆる)しが与えられるのです。

この詩篇(しへん)の中で、信仰者(しんこうしゃ)であったダビデはひたすら(つみ)(ゆる)しを(ねが)います。神を信じる者を神は決して見捨(みす)てない「御恵(みめぐ)み」(ヘブル語のヘセドで契約(けいやく)にもとづく愛の意味)、「あわれみ」(ヘブル語ラーハムで母の(たい)、子への生命の愛の意味)にすがります。

そして彼は、自分が(つみ)ある者であることを正直(しょうじき)告白(こくはく)します。ダビデが自分の(つみ)を知ったのは、彼に語った預言者(よげんしゃ)ナタンの言葉によってでした。ダビデ王の権力(けんりょく)によって、ナタンを消しさることもできました。しかし、ダビデは神のことばを真実(しんじつ)なものとして(つみ)(ゆる)しを乞いました。

(つみ)とはそれが発覚(はっかく)するかどうかはまったく関係ありません。神はすべての(つみ)をご存知(ぞんじ)だと聖書(せいしょ)は言うのです。(つみ)とは神を信じる者が、神の知恵(ちえ)によって(みと)めることができるのです。

しかし同時にその神だけが(つみ)解決(かいけつ)をお持ちです。ダビデは9節で「御顔(みかお)を私の(つみ)から(かく)し」てくださいと(いの)ります。すべての(つみ)をご存知(ぞんじ)の神に対して無意味(むいみ)にも思えます。しかし、すべての(つみ)をご存知(ぞんじ)の神が、人間の(つみ)(おお)(かく)してくださる。これは、新約(しんやく)聖書(せいしょ)のイエス・キリストの十字架(じゅうじか)(つみ)(あがな)いへとつながっていくのです。

さらに、ダビデはただ儀式的(ぎしきてき)(つみ)(ゆる)されるのではなく、彼の内の(つみ)性質(せいしつ)が変えられ、きよめられ、新しく(つく)り変えられることを(ねが)(もと)めるのです。

人間の(ゆる)しとは大目(おおめ)に見ること、我慢(がまん)することでしょう。しかし、神の(ゆる)しは、完全(かんぜん)であるだけでなく、()なる(正しい)者に内側(うちがわ)から刷新(さっしん)することを言うのです。

聖書(せいしょ)の最初は

「初めに、神が天と地を創造(そうぞう)した。」(創世記(そうせいき)1:1)

です。ここの「創造(そうぞう)した」はヘブル原語でバーラーという言葉です。これは主語(しゅご)が「神」の時だけに使われる特別な言葉です。

本編(ほんぺん)の10節の「私にきよい心を(つく)り」の「(つく)り」に使われているのがこのバーラーです。神を信じる者は、(つみ)(ゆる)され、神によってその心が雪よりも白く(つく)り変えられるのです。

そのためにいかなる(ささ)げものや犠牲(ぎせい)必要(ひつよう)ありません。その犠牲(ぎせい)はイエス・キリストが十字架(じゅうじか)でその(とうと)い命すべてを(ささ)げてくださいました。

人間の側で必要(ひつよう)なのは、次の聖書(せいしょ)の言葉にあらわされています。

神へのいけにえは、(くだ)かれたたましい。(くだ)かれた、()いた心。

神よ。あなたは、それをさげすまれません。       詩篇(しへん)51篇17節)

どんな(つみ)を犯したとしても、絶望(ぜつぼう)してはいけません。イエス・キリストはあなたの(つみ)のために死んでくださいました。告白(こくはく)だけが人を(つみ)から(すく)ってくれます。

いかなる(つみ)であっても、()(あらた)めるなら、あなたは神から(うしな)われることなく、神とともに生き続けることができます。そして神だけがあなたの大切な人生を、いつも新しく切り開き、(つく)られるお方なのです。この地上だけでなく永遠にです。

キリストにあってすべてが新しい

コリント人への手紙第二5章11-21節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月28日

<説教>

こういうわけで、私たちは、(しゅ)(おそ)れることを知っているので、人々を説得(せっとく)しようとするのです。私たちのことは、神の御前(みまえ)(あき)らかです。しかし、あなたがたの良心(りょうしん)にも(あき)らかになることが、私の(のぞ)みです。私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦(すいせん)しようとするのではありません。ただ、私たちのことを(ほこ)機会(きかい)をあなたがたに(あた)えて、心においてではなく、うわべのことで(ほこ)る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が(くる)っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気(しょうき)であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを()(かこ)んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後(こんご)、人間的な標準(ひょうじゅん)で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準(ひょうじゅん)でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく(つく)られた者です。古いものは()()って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解(わかい)させ、また和解(わかい)(つと)めを私たちに(あた)えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この()をご自分と和解(わかい)させ、違反(いはん)行為(こうい)()めを人々に()わせないで、和解(わかい)のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節(しせつ)なのです。ちょうど神が私たちを(とお)して懇願(こんがん)しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解(わかい)()()れなさい。神は、(つみ)を知らない方を、私たちの代わりに(つみ)とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の()となるためです。

(コリント人への手紙第二5章11-21節)

<説教>

あなたは新しく生まれ変わりたいですか。

人間の体の90%は生まれ変わっているのをご存知(ぞんじ)ですか。(ふる)細胞(さいぼう)が新しい細胞(さいぼう)に入れ替わるのです。約4か月前に食べたものが今の、あなたの血や肉や骨になっているのです。

(のう)細胞(さいぼう)(のう)みそ)と心筋(しんきん)細胞(さいぼう)心臓(しんぞう)筋肉(きんにく)以外(いがい)細胞(さいぼう)は、物質的(ぶっしつてき)にほとんど()()わっていると言われています。約1年半後、見た目は変わらなくてもあなたはほぼ別人になっているわけです。

(おどろ)きですね。しかし、この人間を(つく)られた神は、人の内面(うちめん)をも(つく)()えることができるのです。

その方法は、聖書(せいしょ)を読んで、自分の(つみ)気付(きづ)き、心を()()えて、神を信じて愛して生きることです。それ以外(いがい)に、人間は新しく生きることは(けっ)してできません。

イエスが自分の(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださったこと、また三日目によみがえられたことを信じるなら、その瞬間(しゅんかん)、あなたの(れい)(たましい)は新しくされます。あなたの中に、イエスが生き始めてくださいます。

外見(がいけん)は何も変わっていないように思えるかも知れません。しかし、その変化は時間が()つに(したが)って明らかにあらわれます。(つみ)に対して適当(てきとう)にごまかして生きることができなくされ、真実(しんじつ)に生きようという思いが(あた)えられます。自分の弱さを知り、イエス様を求めるようになります。人生の価値(かち)基準(きじゅん)が変えられます。生きる目的がはっきりし、自分を大切に健全(けんぜん)(あい)する者へと変えられます。

それは、すべてイエス・キリストに()た者へと変えられることであると聖書(せいしょ)は言っています。

イエスは(かみ)でありながら、人間としてこの地上に来られ、父なる(かみ)を大切に(あい)して(したが)い、人々を(あい)して、人間の本来(ほんらい)の生き方を(おし)えて下さいました。

人間は(あい)している者、信じている者に()ていきます。イエスを信じて(あい)して生きるとき、まったく新しい人生を始めることができるのです。

命とは不思議(ふしぎ)なものです。命の誕生(たんじょう)は人間には説明できません。

あなたは自分が生まれたときのことを(おぼ)えていますか。おそらく何も(おぼ)えていないでしょう。しかし、心を入れ()えてイエスを信じて生きようとするなら、もう一度新しく(たましい)が生まれ変わります。それは、あなたの(よろこ)びと希望(きぼう)となり、イエスこそがあなたの人生の目的になることでしょう。

信仰は神に答えるただ一つの手段

創世記11章27節-12章4節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月21日

<聖書>

これはテラの歴史(れきし)である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中(ぞんめいちゅう)、彼の生まれ故郷(こきょう)であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊(ふにん)の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。【主】はアブラムに(おお)せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷(こきょう)、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福(しゅくふく)し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福(しゅくふく)となる。あなたを祝福(しゅくふく)する者をわたしは祝福(しゅくふく)し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族(みんぞく)は、あなたによって祝福(しゅくふく)される。」アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

(創世記11章27節-12章4節)

<説教>

創世記(そうせいき)は、「人類(じんるい)(はじ)め」について書かれています。宇宙(うちゅう)創造(そうぞう)、人間の創造(そうぞう)、人間の堕落(だらく)、ノアの洪水(こうずい)による神の審判(しんぱん)、バベルの(とう)の後、言葉が混乱(こんらん)して、人々は()()りにされました。

しかし、神に(そむ)き、自己(じこ)中心(ちゅうしん)に生きようとする罪深(つみぶか)い人間に、神はいつも語りかけてくださいます。

人間を(つみ)と死の(ほろ)びから、救い出そうとする神の(あがな)いの計画は、ひとりの人物、アブラハムから始まります。

神はアブラハムの心が神の御前(みまえ)真実(しんじつ)であるのをご(らん)になります。しかし、アブラハムは、異邦(いほう)の神、偶像(ぐうぞう)を神とするウルの町に住んでいました。神はアブラハムをそこから(すく)い出されます。神の語りかけに答えるならは、人は(つみ)の世から分離(ぶんり)(せい)(べつ))されていきます。

75歳で子供のないアブラハムにとって、自分の子孫(しそん)を通して祝福(しゅくふく)を与える神の約束(やくそく)は、常識(じょうしき)では(しん)じられないものでした。神の約束(やくそく)はかならず()たされますが、その中に信仰(しんこう)試練(しれん)が含まれています。

神は高齢(こうれい)のアブラハム夫婦(ふうふ)から星の数ほどの子孫(しそん)(あた)えることがおできになることをアブラハムは信仰(しんこう)によって(しん)じました。そうです。神は約束(やくそく)されたことを必ず実現(じつげん)されます。神の語りかけに、アブラハムはすぐに答えました。まったく未知(みち)の地へ新しく(すす)みだしたのです。

神の約束(やくそく)()()るただ一つの方法は「信仰(しんこう)」です。神のことばを間違(まちが)いのない真実(しんじつ)なものと(しん)じることです。

聖書(せいしょ)のいう信仰(しんこう)者とは、正しい行いを守ることによっていただくよりも深い、真実(しんじつ)な神との関係を知っていました。

聖書(せいしょ)(はじ)めから終わりまで信仰(しんこう)によって()()る神の約束(やくそく)です。

イエス・キリストを(すく)(しゅ)と信じる信仰(しんこう)特別(とくべつ)なものでなく、人間が創造(そうぞう)された(むかし)から神に対する人間ができる唯一(ゆいいつ)応答(おうとう)なのです。

アブラハムに約束された祝福(しゅくふく)は、イエス・キリストを通して完全(かんぜん)成就(じょうじゅ)しました。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神を信じる者を()(つみ)のない者)と(みと)めてくださいます。

イエスに従う者の生き方

マルコの福音書10章35-45節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月14日

<聖書>

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの(たの)(ごと)をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光(えいこう)()で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を(もと)めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの()もうとする(さかずき)()み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの()(さかずき)()み、わたしの()けるべきバプテスマを()けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが(ゆる)すことではありません。それに(そな)えられた人々があるのです。」十人の(もの)がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで(はら)()てた。そこで、イエスは彼らを()()せて、言われた。「あなたがたも()っているとおり、異邦人(いほうじん)支配者(しはいしゃ)(みと)められた(もの)たちは彼らを支配(しはい)し、また、(えら)い人たちは彼らの上に権力(けんりょく)をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で(えら)くなりたいと思う(もの)は、みなに(つか)える(もの)になりなさい。あなたがたの間で人の先に()ちたいと思う(もの)は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、(つか)えられるためではなく、かえって(つか)えるためであり、また、多くの人のための、(あがな)いの代価(だいか)として、自分のいのちを(あた)えるためなのです。」

(マルコの福音書(ふくいんしょ)10章35-45節)

<説教>

イエスの弟子(でし)のヤコブとヨハネは他の弟子(でし)たちと同じように、すべてを()ててイエスに(したが)ってきました。しかし、心の中では人よりも自分が評価(ひょうか)されたいとも考えていました。

かつて弟子(でし)たちは天国(てんごく)で一番(えら)い者とはどのような人かをイエスに質問(しつもん)しました。人間とはそもそも(えら)くなりたい、(みと)められたいと(ねが)うものなのです。

キリスト者とはイエスに(したが)って生きる者です。そこには自分のためだけに生きる者が経験(けいけん)しない試練(しれん)(くる)しみがあることでしょう。

けれども、たとえイエスと(くる)しみをともに()けても天国(てんごく)()ける(むく)いの確約(かくやく)()ることはできません。究極的(きゅうきょくてき)にはすべての最後の権限(けんげん)はキリストの父である(かみ)にあります。私たちが(もと)めるべきは、いかに(むく)いを()けるかよりも、いかにイエスに(したが)って(つか)えていくかなのです。

イエスを(しん)じて生きる者は、この世の権力者(けんりょくしゃ)のようであってはなりません。(かみ)の前では、そのような権力(けんりょく)や力はまったく通用(つうよう)しません。(かみ)の前では人に(つか)える者こそ(たっと)ばれる生き方です。(つか)える給仕(きゅうじ)、しもべのように役に立つ、謙遜(けんそん)姿勢(しせい)がキリスト者の根本的(こんぽんてき)姿勢(しせい)です。

イエスは、その(すく)(ぬし)(メシヤ)としての生涯(しょうがい)(とお)して(つか)えるしもべの生き方を(しめ)されました。その十字架(じゅうじか)こそが完全(かんぜん)模範(もはん)でした。

(あがな)いの代価(だいか)(ギリュトゥトロン)」とは、自分の力ではどうしても()け出せない(つみ)奴隷(どれい)状態(じょうたい)から人間を(すく)い出すためにイエスが十字架(じゅうじか)支払(しはら)われた(いのち)です。

十字架(じゅうじか)の死にまで(したが)ったイエスのお姿を知って、私たちがイエスを(しん)じて(あい)するとき、私たちもまた(だれ)かに(つか)えることによってイエスの(あい)十字架(じゅうじか)を本当に体験(たいけん)します。その生き方によって私たちはイエスに()真実(しんじつ)な人間に変えられていきます。

この世で人々から称賛(しょうさん)されるのは、さまざまな勝者(しょうしゃ)といわれる人たちかも知れません。しかし、(かみ)天国(てんごく)(かんむり)をかぶらせてくれる者とは、(だれ)にも知られないような人生の中で、小さきものに(つか)えた者なのです。