イエスに従う者の生き方

マルコの福音書10章35-45節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月14日

<聖書>

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの(たの)(ごと)をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光(えいこう)()で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を(もと)めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの()もうとする(さかずき)()み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの()(さかずき)()み、わたしの()けるべきバプテスマを()けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが(ゆる)すことではありません。それに(そな)えられた人々があるのです。」十人の(もの)がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで(はら)()てた。そこで、イエスは彼らを()()せて、言われた。「あなたがたも()っているとおり、異邦人(いほうじん)支配者(しはいしゃ)(みと)められた(もの)たちは彼らを支配(しはい)し、また、(えら)い人たちは彼らの上に権力(けんりょく)をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で(えら)くなりたいと思う(もの)は、みなに(つか)える(もの)になりなさい。あなたがたの間で人の先に()ちたいと思う(もの)は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、(つか)えられるためではなく、かえって(つか)えるためであり、また、多くの人のための、(あがな)いの代価(だいか)として、自分のいのちを(あた)えるためなのです。」

(マルコの福音書(ふくいんしょ)10章35-45節)

<説教>

イエスの弟子(でし)のヤコブとヨハネは他の弟子(でし)たちと同じように、すべてを()ててイエスに(したが)ってきました。しかし、心の中では人よりも自分が評価(ひょうか)されたいとも考えていました。

かつて弟子(でし)たちは天国(てんごく)で一番(えら)い者とはどのような人かをイエスに質問(しつもん)しました。人間とはそもそも(えら)くなりたい、(みと)められたいと(ねが)うものなのです。

キリスト者とはイエスに(したが)って生きる者です。そこには自分のためだけに生きる者が経験(けいけん)しない試練(しれん)(くる)しみがあることでしょう。

けれども、たとえイエスと(くる)しみをともに()けても天国(てんごく)()ける(むく)いの確約(かくやく)()ることはできません。究極的(きゅうきょくてき)にはすべての最後の権限(けんげん)はキリストの父である(かみ)にあります。私たちが(もと)めるべきは、いかに(むく)いを()けるかよりも、いかにイエスに(したが)って(つか)えていくかなのです。

イエスを(しん)じて生きる者は、この世の権力者(けんりょくしゃ)のようであってはなりません。(かみ)の前では、そのような権力(けんりょく)や力はまったく通用(つうよう)しません。(かみ)の前では人に(つか)える者こそ(たっと)ばれる生き方です。(つか)える給仕(きゅうじ)、しもべのように役に立つ、謙遜(けんそん)姿勢(しせい)がキリスト者の根本的(こんぽんてき)姿勢(しせい)です。

イエスは、その(すく)(ぬし)(メシヤ)としての生涯(しょうがい)(とお)して(つか)えるしもべの生き方を(しめ)されました。その十字架(じゅうじか)こそが完全(かんぜん)模範(もはん)でした。

(あがな)いの代価(だいか)(ギリュトゥトロン)」とは、自分の力ではどうしても()け出せない(つみ)奴隷(どれい)状態(じょうたい)から人間を(すく)い出すためにイエスが十字架(じゅうじか)支払(しはら)われた(いのち)です。

十字架(じゅうじか)の死にまで(したが)ったイエスのお姿を知って、私たちがイエスを(しん)じて(あい)するとき、私たちもまた(だれ)かに(つか)えることによってイエスの(あい)十字架(じゅうじか)を本当に体験(たいけん)します。その生き方によって私たちはイエスに()真実(しんじつ)な人間に変えられていきます。

この世で人々から称賛(しょうさん)されるのは、さまざまな勝者(しょうしゃ)といわれる人たちかも知れません。しかし、(かみ)天国(てんごく)(かんむり)をかぶらせてくれる者とは、(だれ)にも知られないような人生の中で、小さきものに(つか)えた者なのです。

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