詩篇51篇1-12節より
2023年6月4日
<聖書>
指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき
神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
(詩篇51篇1-12節)
<説教>
「あなた」と「わたし」と聞いて、何を連想しますか?
聖書はずばり「神」と「私」の関係です。この詩篇51篇の19節中で原語では「私」が38回、「あなた」が47回出てきます。
罪の赦しは、たんに懺悔のような自分一人の独白ではなく、気分的に楽になるのでもありません。神との親密な関係の中に確かな赦しが与えられるのです。
この詩篇の中で、信仰者であったダビデはひたすら罪の赦しを願います。神を信じる者を神は決して見捨てない「御恵み」(ヘブル語のヘセドで契約にもとづく愛の意味)、「あわれみ」(ヘブル語ラーハムで母の胎、子への生命の愛の意味)にすがります。
そして彼は、自分が罪ある者であることを正直に告白します。ダビデが自分の罪を知ったのは、彼に語った預言者ナタンの言葉によってでした。ダビデ王の権力によって、ナタンを消しさることもできました。しかし、ダビデは神のことばを真実なものとして罪の赦しを乞いました。
罪とはそれが発覚するかどうかはまったく関係ありません。神はすべての罪をご存知だと聖書は言うのです。罪とは神を信じる者が、神の知恵によって認めることができるのです。
しかし同時にその神だけが罪の解決をお持ちです。ダビデは9節で「御顔を私の罪から隠し」てくださいと祈ります。すべての罪をご存知の神に対して無意味にも思えます。しかし、すべての罪をご存知の神が、人間の罪を覆い隠してくださる。これは、新約聖書のイエス・キリストの十字架の罪の贖いへとつながっていくのです。
さらに、ダビデはただ儀式的に罪が赦されるのではなく、彼の内の罪の性質が変えられ、きよめられ、新しく創り変えられることを願い求めるのです。
人間の許しとは大目に見ること、我慢することでしょう。しかし、神の赦しは、完全であるだけでなく、義なる(正しい)者に内側から刷新することを言うのです。
聖書の最初は
「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)
です。ここの「創造した」はヘブル原語でバーラーという言葉です。これは主語が「神」の時だけに使われる特別な言葉です。
本編の10節の「私にきよい心を造り」の「造り」に使われているのがこのバーラーです。神を信じる者は、罪が赦され、神によってその心が雪よりも白く造り変えられるのです。
そのためにいかなる捧げものや犠牲も必要ありません。その犠牲はイエス・キリストが十字架でその尊い命すべてを捧げてくださいました。
人間の側で必要なのは、次の聖書の言葉にあらわされています。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。 (詩篇51篇17節)
どんな罪を犯したとしても、絶望してはいけません。イエス・キリストはあなたの罪のために死んでくださいました。告白だけが人を罪から救ってくれます。
いかなる罪であっても、悔い改めるなら、あなたは神から失われることなく、神とともに生き続けることができます。そして神だけがあなたの大切な人生を、いつも新しく切り開き、造られるお方なのです。この地上だけでなく永遠にです。