マタイの福音書5章1-10節より
2023年6月18日
<聖書>
この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
(マタイの福音書5章1-10節)
<説教>
マタイの福音書の5章から7章は「山上の垂訓」と言われる長い説教です。これはイエス様が語られたいろいろな説教をまとめたものです。イエス様はこのような教えを弟子たちに絶えず、習慣的に教えられました。
内容はとても高い神の道徳基準であり、人間が守ろうとして守れるものではありません。
たとえば、「人を憎んではならない」、「情欲をもって異性を見てはならない」、「人前で善行してはならない」、「人をゆるしなさい」、「自分の宝を天にたくわえなさい」、「何を食べるか心配してはいけない」、「人をさばいてはならない」「自分の敵を愛しなさい」など。
これらの教えによって、人は自分が罪を犯したことを知ります。神さまは自分が決して正しくないことを気付かせてくれるのです。これらの教えは本来の人間の姿、神さまが造られた人間の姿を表わしています。神さまを信じて生きる時に、神さまがそのような人間、イエス様に似た者に造り変えてくださるのです。
「心が貧しい人」とはどういう意味でしょうか。
それは、あまりにも貧しくて、力も地位も助けもなく、人や社会から責められ見放されて、すべての希望を神にかける人のことです。
旧約聖書の詩篇にも、次のようにあります。
「この悩む者が呼ばわったとき、【主】は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。」
(詩篇34:6)
「貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。」
(詩篇9:18)
詩篇の中の貧しく悩む者とは、神に近づいて神に喜ばれる人のことです。
私たちは財産や貯金がたくさんあれば、人生が安全で保障されると思っていました。幸せの多くがそのようなものだと考えていたかもしれません。
しかし、自分が人からある意味で見放された存在であると知り、心から全力で神さまに信頼する者は次のことを知るのです。
- 物への執着がなくなっていく。物質が人間に幸福や安全を与えるのではない。
- 神さまだけが自分を助け、望みと力を与えることができる。
私たちの本当の問題は、貧乏でみじめか、お金や物があって裕福かどうかなのではありません。それらは第一ではなく、実は自分自身の内には、生きる希望や救いがまったくないと知ることなのです。
人間は弱く、小さく、罪深い者なのです。神さまを必要とする存在なのです。神さまを頼って、助けられなければ、罪深い生き方から本当の人間として生きることはできません。
自分のありのままを受け入れてくださる神さまを信頼しましょう。そのとき本当の自分のすべてを愛して生きていけるのです。「神さまと自分を知る」とき本当の人生が始まるのです。
「心の貧しい者は幸いです。」は原文のアラム語では、単調な文ではありません。「ああ、幸いなるかな、心の貧しき者!」という感動に満ちた意味です。
この世の喜びは、健康が失われた時、計画が失敗した時、希望がかなえられなかった時にはかなく去っていきます。
しかし、イエス・キリストを信じる者は深い静かな喜び、なにものにも変えられない喜びをもっています。
苦痛の中、損失、悲しみ、痛み、涙の中にも心に満ち、消すことのできない喜び、それは死さえも奪い取ることのできない喜びです。罪の赦しを受け、救われた者の勝利の叫びです。
これはイエス・キリストと共に歩む者だけが持っているのです。
イエス様があなたの罪のために十字架で死んでくださいました。このお方に何も心配せずにおゆだねして、従っていきましょう。