ピリピ人への手紙2章1-11節より
2023年9月17日
<聖書>
こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
(ピリピ人への手紙2章1-11節)
<説教>
ピリピの教会の中には、不一致、不調和があり、自分の野心を満足させようとする者、また自分が人々から注目されたいと願う人々がいました。
パウロは、謙遜でありなさい。自分のことだけでなく、他の人のことを気遣うように注意します。自己中心や自慢するために何かをしてはいけませんと教えます。
教会に集うキリスト者、神さまを信じる者は神さまに従っていかなくてはなりません。そのためには自分の心の中にイエス様の平安がなくてはなりません。しかし、私たちの注目するものが神さまではなくて、自分の欲や高ぶりが心の中にいっぱいであるなら、神さまに従うことは出来ません。
イエス様は、神さまであるのに、人間の姿を取って、この世に来られました。イエス様は、人間として、苦しみ、痛み、乏しさ、貧しさ、飢え、また愛する者から裏切られ、拒絶され、見捨てられる苦悩と落胆を経験されました。すべてのことを父に従い通されました。
そのすべての働きの原動力は父なる神さまにお祈りしてお話しすることでした。父の御心に従うことが出来るように父に頼み祈りました。
そして、守るべきことを守り、罪を犯さず、罪を犯した者が受けるべき刑罰の死である十字架までも受けてくださりました。十字架に付けられたイエス様は人々からあざけられ、からかわれ、さげすまれました。完全に聖書の言葉を守り従われたのです。
そして、死んで三日目に父なる神さまはイエス様をよみがえらせられ、天の父のもとに上げられました。
それは、すべての人がイエス様を信じて、神さまの素晴らしさを、喜び称えるためです。
神さまを知る前は、人間はむなしいもの、かなしいもの、罪深いものを見ていました。しかし、神さまはそんな人間に、神さまを見上げてほしいと願っておられます。
イエス様が父なる神さまに従い祈って生きる姿は、私たちの生き方でもあらねばなりません。
イエス様こそが、本来の人間の姿を私たちに教えてくださっているのです。それは神さまにを信頼して従い、愛を受けて祈りながら生きることです。
私たちは、どんな時でも、自分のしたいように欲のままに生きることはできます。神さまが私たちの心に示されることを無視して生きる選択もあります。しかし、そこには神さまの祝福はなく、本当の喜びはなく、虚しさがあり、死の滅びへつながった道です。自分のことを愛せない生き方です。
しかし、自分を神さまの前に低く、謙遜に、貧しく虚しくする者を神さまは救ってくださいます。神さまの前に、罪を悔い改め、自分を低くする者、神さまの言われることに従う者は、必ず、神さまが素晴らしい高みへと引き上げてくださいます。
イエス様を信じて祝福を受けるために大切なのは、何より素直さです。神さまの前にも人に対して謙遜でありましょう。他の人のことを心から優しく大切に親切にしましょう。それだけが、イエス様を知る方法です。