イエス様と最後まで生きる

ヘブル人への手紙12章1-3節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月12日

<聖書>

こういうわけで、このように多くの証人(しょうにん)たちが、(くも)のように私たちを()()いているのですから、私たちも、いっさいの重荷(おもに)とまつわりつく(つみ)とを()てて、私たちの前に()かれている競走(きょうそう)忍耐(にんたい)をもって走り続けようではありませんか。
信仰(しんこう)創始者(そうししゃ)であり、完成者(かんせいしゃ)であるイエスから目を(はな)さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に()かれた(よろこ)びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架(じゅうじか)(しの)び、神の御座(みざ)の右に着座(ちゃくざ)されました。
あなたがたは、罪人(つみびと)たちのこのような反抗(はんこう)(しの)ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、(つか)()ててしまわないためです。

(へブル人への手紙12章1-3節)

<説教>

キリスト者として最後まで生きることは、決して簡単なことではないかも知れません。神さまに(したが)って生きるキリスト者は日本でも1%未満(みまん)と言われています。

聖書によるとイエス様の弟子として(したが)うキリスト者の歩みは「競争」なのです。

しかし、ヘブル人への手紙11章にある旧約聖書の信仰者が証人(しょうにん)として、私たちを(はげ)ましてくれます。ただの声援(せいえん)ではなく、最後まで信仰(しんこう)に生きた証人(しょうにん)としてです。

そして、何より父なる神さまに(したが)われたイエス様の信仰(しんこう)により、私たちもまた、このお方を目標として、また指導者(しどうしゃ)として、同伴者(どうはんしゃ)として歩んでいくのです。

旧約の信仰(しんこう)者と同様に、今の時代も罪の世であり、キリスト者として生きやすい所ではありません。

しかし、キリスト者として生きる問題は自分自身にあり、罪と重荷(おもに)を捨てて身軽(みがる)にして、競争を走り続けることが大切です。

ここでの罪とは「不信仰」です。一般的な信仰(しんこう)ではなく、御言葉(みことば)(したが)信仰(しんこう)です。

信仰(しんこう)がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には(むく)いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。                                                   (ヘブル人への手紙11:6)

そのために、イエス様を見上げ続けることです。この方を見るならば、罪によって神さまとの関係を失うことはありません。(つか)れて(すわ)()んでも、また希望(きぼう)と力が(あた)えられます。愛が生まれます。イエス様に()た者へと(つく)り変えてくださいます。

人間の罪によって、イエス様は十字架の苦しみとはずかしめを受けられましたが、よみがえりの先にある、神へつながる救いの道、信仰(しんこう)栄冠(えいかん)(よろこ)ばれました。

世の罪、また自分自身の罪により、苦難(くなん)がありますが、イエス様の信仰(しんこう)によって、栄光(えいこう)の勝利が約束されています。信仰(しんこう)がそれを確実(かくじつ)なものとしてくれるのです。

信仰(しんこう)は望んでいる事がらを保証(ほしょう)し、目に見えないものを確信(かくしん)させるものです。

(ヘブル人への手紙11:1

私たちの本当の(よろこ)びとは、大切な人が(よろこ)んでいることでしょう。そこから(よろこ)びは始まります。イエス様は、あなたを愛されて(よろこ)んでおられます。(よろこ)んでイエス様を見続けましょう。人生のゴールで、必ずイエス様はあなたを(むか)えてくださいます。

私は自分のからだを打ちたたいて(したが)わせます。それは、私がほかの人に()(つた)えておきながら、自分自身が失格者(しっかくしゃ)になるようなことのないためです。

(コリント人への手紙第一9:27

イエス様と共に愛に生きる

ルカの福音書10章25-37節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月5日

<聖書>

すると、ある律法(りっぽう)専門家(せんもんか)が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠(えいえん)のいのちを自分のものとして()けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法(りっぽう)には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「『(こころ)()くし、(おも)いを()くし、(ちから)()くし、知性(ちせい)()くして、あなたの神である(しゅ)を愛せよ』、また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身(じしん)のように愛せよ』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行(じっこう)しなさい。そうすれば、いのちを()ます。」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人(となりびと)とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ(くだ)る道で、強盗(ごうとう)に襲われた。強盗(ごうとう)どもは、その人の着物(きもの)をはぎ取り、なぐりつけ、半殺(はんごろ)しにして()げて行った。
たまたま、祭司(さいし)がひとり、その道を(くだ)って来たが、彼を見ると、反対側(はんたいそく)を通り()ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側(はんたいそく)を通り()ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、(たび)途中(とちゅう)、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄(ちかよ)って(きず)にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜(かちく)()せて宿屋(やどや)()れて行き、介抱(かいほう)してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋(やどや)の主人に(わた)して言った。『介抱(かいほう)してあげてください。もっと費用(ひよう)がかかったら、私が帰りに(はら)います。』
この三人の中でだれが、強盗(ごうとう)(おそ)われた者の隣人(となりびと)になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

(ルカの福音書10章25-37節)

<説教>

この律法(りっぽう)専門家(せんもんか)は、永遠(えいえん)のいのちを受けるために何を行えばいいのかイエスに質問しました。

すると彼は答えて言った。「『心を()くし、思いを()くし、力を()くし、知性(ちせい)()くして、あなたの神である(しゅ)を愛せよ』、また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

(ルカの福音書10:27)

このみことばは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)にある律法(りっぽう)です。

「あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18)

隣人(となりびと)とは(だれ)なのか、どのように愛するのか、その答えがイエスの語られた「良きサマリヤ人」(ルカ10:30-37)の姿です。

律法(りっぽう)専門家(せんもんか)で神に(つか)える祭司(さいし)、レビ人は半殺(はんごろ)しになった人を見て反対側を通り()ぎて行きます。律法(りっぽう)では死人に()れると(けが)れ、神殿(しんでん)奉仕(ほうし)ができなくなる。また、介抱(かいほう)する者が強盗(ごうとう)(おそ)われる手口(てぐち)もよくあり、それを(おそ)れた…

しかし、自分を正しいとするいかなる理由も、神の前では通用しません。

それに対してサマリヤ人は

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中(とちゅう)、そこに来合(きあ)わせ、彼を見てかわいそうに思い、(ルカ10:33)

サマリヤ人のこの「かわいそうに思」う心こそがすべてなのです。この強盗(ごうとう)に襲われた人に対するあわれみの心によって、彼のすべての愛のわざが行なわれたのです。

祭司(さいし)、レビ人もわずかでも同情(どうじょう)があったはずなのです。私たちは、このあわれみを()ざしてはなりません。あわれみによって隣人(となりびと)が生まれるのです。だれかがあなたの隣人(となりびと)なのではありません。大切なのは、あなたが(だれ)かの隣人(となりびと)になれるということです。

この律法(りっぽう)専門家(せんもんか)は、何を行えば永遠のいのちを()るのか、また(だれ)がわたしの隣人(となりびと)なのかとイエスに聞きました。

人は()い行いによっては決して(すく)われません。人は愛を行うものとして神の()姿(すがた)創造(そうぞう)されたのです。()い行いをする神の()せて(つく)られたのです。神さまがあなたに何を(のぞ)んでおられるかを私たちは知っています。

私たちは神の作品であって、()い行いをするためにキリスト・イエスにあって(つく)られたのです。神は、私たちが()い行いに歩むように、その()い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

(エペソ2:10)

もっとも大切なことは愛なのです。同情(どうじょう)するだけではなく、具体的(ぐたいてき)行動(こうどう)(ともな)う愛です。聖書が言う愛は感情(かんじょう)ではなく、態度(たいど)姿勢(しせい)行動(こうどう)決断(けつだん)です。

愛は寛容(かんよう)であり、愛は親切(しんせつ)です。また人をねたみません。愛は自慢(じまん)せず、高慢(こうまん)になりません。礼儀(れいぎ)に反することをせず、自分の利益(りえき)(もと)めず、(いか)らず、人のした悪を思わず、不正を(よろこ)ばずに真理(しんり)(よろこ)びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待(きたい)し、すべてを()(しの)びます。愛は決して()えることがありません。

(Ⅰコリント13:4-8)

心が変われば人は変わります。愛された者は愛します。多く(ゆる)された者は多く愛します。いかなる人もイエスの愛に()れられ罪(ゆる)されたなら、新しい心に変えられ、新しく生きられるのです。

永遠のいのちは、この愛をイエスとともにあらわして生きることです。

イエス様の「あなたも行って同じようにしなさい。(ルカ10:37)」

あなたを新しい生き方に変えるみ言葉です。

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法(ふほう)から(あがな)い出し、()いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

(テトス2:14)