完全な正しさの基準は人間ではなく神にある

マルコの福音書15章1-15節より

2021年6月13日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人間の本質が正しいと考えるのはあまりにも楽観的すぎます。警察、法律を犯す者への罪の刑罰によって、現在の平和は守られていることも忘れてはいけません。聖書によるとすべての人間は罪人として生まれてきます。人間の中には絶対的な正しさはないのです。裁判でどれだけ時間をかけても正しい判決をくだすことが出来るとは限りません。2000年前にユダヤで開かれたイエスを訴えた裁判では、イエスをまことの神とは認めず、かえって神の名を汚したとして十字架刑が言い渡されました。わずか半日で判決が言い渡されました。

まことの神を恐れる心こそが、真実を告白する正しい生き方です。人間は神に造られた被造物です。神こそが人間の正しさの基準なのです。人を殺してはならないと神は十戒を通して命令しています。すべての人間はやがて来る終わりの日に最後の審判を受けます。あなたの人生のすべての行い、言葉、心の中のすべてを神はさばかれます。

偽証による不当な裁判によりイエスは十字架で死刑に定められます。イエスの十字架の苦しみの中に人間のおそるべき罪深さが現されています。神であるイエスが死んでくださる以外に人間の罪は赦されないのです。正しさも罪の赦しも人間の中にはありません。あなたの罪の救い主としてイエスを信じることを、神は聖書を通してあなたに教えています。

人殺しのバラバの命を助けるためにイエスは十字架で身代わりになりました。イエスは罪人を救い出すために死んでくださいました。罪人とはバラバであり、またあなたのことです。神に対して罪ある者として生まれ、罪人として生きてきたあなたの罪を赦すために、イエスはあなたの身代わりに罪の刑罰を受けられました。イエスを信じる者は罪赦され、イエスの命を受けて新しく生きることができます。その新しい命はイエスを模範として正しく生きる力です。

本当のあなたのことを一番知っているのは誰ですか

マルコの福音書14章65-72節

2021年6月6日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

あなたは自分のことをどれくらい知っていますか。人は次の3通りの自分として知られています。①あなたが知っている自分②ほかの人から見た自分③神様から見た自分

イエスの弟子のペテロは、どんなことあってもイエスに従ってお供できると自信を持っていました。自分の力、経験や感覚でやっていけると信じていました。

イエスが十字架で死なれるとしても、あなたを知らないなど決して言わないと自信をもって言いました。しかし、イエスは逮捕され、死刑にするための不公平な裁判にかけられ、群衆に囲まれリンチを受け、圧倒的に不利な状況になります。イエスの仲間と知られると逮捕され、殺される可能性もありました。

そんな中、ペテロはイエスを知らないと3度言い終わらないうちに鶏が鳴きます。イエスが「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われた言葉を思い出します。その時ペテロは自分の本当の姿を知ったのです。言葉だけで行いのない自分の信仰を知るのです。イエスを信じる信仰は頭の知識や努力ではなく、生きた経験なのです。失敗も敗北も惨めな経験もすべてが信仰生活であらわにされていいのです。そんな罪深い自分だからこそイエスが必要なのです。

ペテロはイエスと一緒に死ぬつもりでした。しかし、人は誰も神様のために死ぬことはできないのです。なぜなら、すべての人は神様に対して罪を犯して、死んだものだからです。ペテロのように自分を許せずに後悔して泣くだけではだめなのです。神様に対して罪を犯したこと心から悲しまなければならないのです。神様のことを信じられないという人は、本当の自分の罪深さを知らないからです。

人間は罪により、誰かを傷つけ、また誰かに傷付けられています。それは、人間が神様を傷つけることにより、自分自身を傷つけているからなのです。

イエスはあなたのすべてをご存知なので、あなたが罪を犯してしまった、どうしようもない理由もご存知です。あなたが神様は自分のことをすべてご存知であると信じた時、あなたの罪は赦されます。また、あなたの傷も癒されます。

仲の良い人間関係が壊れて無視し合うことほど悲しく不幸なことはありません。それは時に死ぬことよりも苦しいことです。事実、聖書は神様と人間の関係が壊れたことを罪と言います。人間の犯した罪は死んでも後も永遠に赦されません。しかし、キリストがあなたの罪の身代わりに十字架で死んでくださったことを信じるなら、あなたは永遠に続く罪の刑罰を赦され、永遠の命を受けます。

ペテロに罪の赦しを与えるために、イエスは三日目によみがえられました。「主よ、あなたは一切のことをご存知です。」とペテロと同じように告白する者は幸いです。

人間が神を殺すことは絶対にできない

マルコの福音書14章53-64節より

2021年5月30日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

ユダヤの指導者たちは、偽りの証言によりイエスを死刑にするために裁判にかけました。歴史の中で前代未聞の最もおろかな裁判が行われました。被造物であり有限である人間が、永遠の万物の主権者である神を裁いて、殺そうとしたのです。

イエスは権威ある神の言葉を話し、罪の赦しを与え、安息日に病を癒し、愛とあわれみをその言葉と行いであらわされ、ユダヤの宗教家たちの心の中にある偽善をするどい真理で示されました。彼らはねたみ、恐れ、かたくなさから、イエスが神に遣わされたことを受け入れません。かえってイエスを憎み、殺害しようとします。

人間でありながら、自分を神とした冒涜の罪により、イエスに死刑にします。人間はまことの神であるイエスを十字架で殺してしまったのです。しかし、誰も神であるイエスの命を取ることなどできません。イエスご自身が命の光なのです。イエスは命を捨てる権威と、命を得る権威があるのです。罪なきイエスだけが人間の罪のために、全人類の罪のために十字架で自ら命を捧げることができたのです。

神ははじめであり、終わりです。神は永遠に変わることはありません。イエスが人となってこの世界に来られたのは、すべての人が神の存在を知るためです。人間の側からはいくら努力して探しても神を見出すことはできません。イエス・キリストを通して、聖書を通して、神はご自身を明らかにされます。

神はイエスにより、人間に福音を与えてくださいます。福音とはよき知らせの意味で、キリストを信じることによって、罪赦されることです。福音はどんな頭のいい天才でも考え付かない神のみわざです。

信仰は知識に先立ちます。神を信じるとき、知識が信仰を支えてくれます。キリストはすべての人の罪の刑罰の身代わりのために十字架で死んでくださり、3日目によみがえられました。そして、今生きてはたらかれている真の神様です。信じる者は罪赦され、神と永遠の生きた交わりに入れられます。

神の定められた時に神の約束は必ず成る

マルコの福音書14章43-52節より

2021年5月23日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスの弟子であったユダは、群衆やローマ兵、役人たちの先頭に立って、イエスを裏切って逮捕しに来ます。ペテロはどうしていいかわからずに、剣を振り回して、敵の耳を切り落とします。神の言葉と神の時がわからない(信じられない)ならば人間は損得、自分の心の感情に従って、何を基準に生きていいのかわかりません。

イエスが予告した通り、罪人たちにイエスは渡され、弟子たちはイエスを残して逃げて行きます。聖書に書かれていることが成就するために、これらのことは起こりました。

聖書には天の下には何事にも定まった時があると書かれています。聖書に書かれている通りに神が定められた期間が満ちて、イエスは人としてこの世界に来られました。神の時が満ちて、イエスは宣教を開始されました。イエスは神の定められた時をご存知でした。ご自身が罪人たちに渡されて多くの苦しみに会われ十字架で処刑され、3日目によみがえられなければならないことをご存知でした。

神様の定められた約束を誰も変えることはできません。誰も神に逆らって生きることはできないのです。その神の言葉とは、すべての人は神の前に罪人として生まれ、罪の刑罰として永遠の死を受けなければならないことです。

しかし、イエスはその罪の刑罰を十字架で身代わりに受けてくださいました。自分の罪のためにイエスが死んでくださったことを信じるなら、あなたは罪の刑罰の死から救われ、無罪放免となります。自分の力ではどうすることもできない滅びから救われ自由とされるのです。神の約束は、神のことばを信じることによってだけ、変えることができるのです。

私たちはもし、あの時に戻ることができたら…、過去の過ちがなかったなら…、人生をやり直すことができたらと思うことがあるかもしれません。

多くは時間の経過と共に忘れられたり、諦めたりすることができるかも知れません。

イエスを信じるなら、時間を超えて、すべての罪は完全に赦されます。神はすべての罪を赦され、罪責感は完全に解決されます。キリストの十字架と復活の命を受けて、新しく生まれ変わって生きることができるのです。過去の後悔も、時間の束縛からも解放されて永遠の存在とされるのです。

忘れないでください。神はいかなる時も、あなたを愛してくださっています。

誘惑に打ち勝つ祈り

マルコの福音書14章26-42節より

2021年5月16日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

十字架を前にイエスは弟子たちは自分を見捨てて逃げてしまうと予告します。弟子のペテロは私は絶対そんなことはしないと強く言い張りました。

しかし、ペテロは3度もイエスを知らないと言い、イエスを裏切りました。

信仰とは自分を頼りにするのではなく、全面的に神様に信頼することです。聖書が神様の言葉であると信じて、聖書に従って日々生きることです。

イエスは全人類の罪のために十字架で死ぬことにより、父なる神様との関係が絶たれ、見捨てられることに、恐れもだえていました。イエスはひとりで祈ることをよしとされず弟子たちを連れて祈り、また自分が悲しみで死にそうだと打ち明けます。父なる神様にもこの十字架のときを過ぎ去らせてくださいと祈ります。

人間は問題から逃げること、罪に生きる安易な道を選びますが、それは一時的で何の解決にもなりません

自分の弱さを正直に神様に祈るとき、その弱さに神様が働かれます。自分の方法ではなく、神様にすべてゆだねるとき、問題の解決を超えた信仰の勝利が与えられます。神様に従うならば、その時は苦しくても、永遠の平安と喜びに必ず満たされます。

最大の誘惑とは神のことばに従わず、別の方法を選ぶことです。

イエスこそが、最も苦しい道を通られ、最大の誘惑にあわれ、恐ろしい死を経験されました。

しかし、神様にすべて信頼して従い、最大の苦難から最大の勝利を取られました。

本当の幸いな人生は問題から逃げるのではなく、神様に従うことです。自分を捨てるとき、イエス・キリストを得ます。

人間の裏切りはキリストの十字架を超えない

マルコの福音書14章18-25節より

2021年5月9日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

最後の晩餐で主イエスは、この中にわたしを裏切る者がいると言われました。誰ひとり、自分は神の前に正しいと言えるものはいません。

イスカリオテのユダはイエスの弟子でしたが、いつからかイエスの言葉に従わずに罪を繰り返すようになりました。ユダは自分の欲望に従い、救い主イエスがくださる希望を信じなくなったのです。これは神から離れたすべての人間の姿です。

罪は新たな罪に向かわせ、正常な感覚をまひさせ、次第に良心の呵責に応答できなくなります。そして、最後は何をしても満たされずに、神の救いのみ言葉から完全に離れて死の滅びに落ちます。結局、ユダは最愛の師、いえ神であるイエスを自分の欲望のために売り渡したのです。

ユダは主イエスを裏切りましたが、イエスを十字架につけたのはユダではありません。すべての人は神に対して罪があり、すべての人の罪の身代わりにイエスは十字架で死なれたのです。

裏切りは人間の罪の性質の現れです。「悪事をたくらむ者」「親に逆らう者」「わきまえのない者」「約束を破る者」「情け知らずの者」など、これらも神から離れた罪が原因です。

主イエスの十字架はユダのためであり、すべての人間のためなのです。罪が人間を苦しめ、不自由にさせ、まことに生きる道を見えなくしているのです。主イエスはすべての罪をその身に受け、信じる者に赦しを与える新しい契約のために血を流されました。

最後の晩餐で、すべてをご存知であるイエスはそれでも、ユダを自分の左の席につかせ、パンを浸して渡します。これは愛する友へのもてなしを意味します。イエスはどんな罪人をも愛され、神から離れた罪の道から、わたしのもとに来なさいと招いておられます。

ユダの運命は聖書のみ言葉の成就です。サタンがユダに入り、イエスの死の背景には悪魔的な力が働いていました。サタンの目的は神様の計画を妨げることです。

しかし、ユダの裏切りによって、キリストを十字架につけてサタンは神様のご計画を壊したのでしょうか。いいえ、キリストが十字架で死なれ、葬られ、3日後によみがえられたことによって、神様のご計画、すべての人間の罪の束縛から救い出す命を勝ち取ったのです。罪の結果である死の力を完全に無力にされたのです。

いかなる罪であってもキリストを信じて赦されない罪はありません。人間の罪はキリストの十字架を超えることはできないのです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

(ローマ人への手紙5章8節)

最後の晩餐①~過越しの祭り

マルコの福音書14章12-17節より

2021年5月2日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

キリストは12人の弟子たちと過越しの食事をすることを前もって決めておられました。これはレオナルドダヴィンチの絵画でも有名な最後の晩餐です。

最後の晩餐が行われたのは過越しの祭りの時でした。

イスラエルの民は旧約聖書にある出エジプトという出来事をとても大切に覚えています。それは、かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民を彼らの神が救い出した出来事です。

この最後の晩餐をあらかじめ準備していた、主催者であるイエスこそが、このイスラエルの神なのです。神であるイエスが、過越しの子羊として、まことの出エジプトを完成させてくださるのです。

旧約時代から、人間の罪を代わりに受けるために、羊や牛が犠牲として殺され血を流し捧げられてきました。けれども、羊や牛の命は人間の罪をきよめることはできません。

しかし、神であるイエスが、ご自身の罪のない、きよい血によって、人間の罪の刑罰の身代わりとして、罪の代価を支払われたのです。それが、2000年前のゴルゴタの丘の十字架です。

最初の人アダムが神の命令に背いて罪を犯して以来、すべての人間には罪があります。その罪の刑罰は永遠の死です。全人格的に堕落した人間は自分で自分を救うことはできません。

神様は、聖いお方なので、罪の刑罰を何らかの形で満たさなければなりません。しかし、神様の愛はその刑罰をご自身のひとり子のキリストに負わせることでした。

最後の晩餐で、イエスは弟子たちの足を洗い、互いに愛し合うことを教えました。イエスは自分からすすんで、人間の命が滅びからの回復を喜んで、十字架に架かられました。

キリストが十字架で流された血は、人間の罪を完全にきよめて赦すことができます。人間のどうしようもない罪の性質を変える力があるのです。

新しい契約のために流された血なのです。そしてキリストは十字架で死なれ、葬られ、三日目に罪に打ち勝ち、死よりよみがえられたのです。

それは信じる者が、新しく生まれ、神の子どもとされ、新しい歩みをするためです。罪に打ち勝つ力を受け、内なる人が変えられ、よい愛の行いをする者とされます。

どこか遠い存在の神様が十字架に架かられたのではありません。あなたと喜びも悲しみも共にするまことの家族の関係をもち、共に食事をしたいと招いておられるのです。キリストを信じるあなたの罪を完全に赦し、キリストとあなたは一つとされて、神の救いは与えられるのです。

キリストに捧げるなら、あなたはいつまでもキリストの記念とされる

マルコの福音書13章28-37節より

2021年4月25日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

ユダヤの3大祭りのひとつの過越しの祭りが近づいていました。祭りには多くの巡礼者がエルサレムに集まります。人々がイエスの教えを信じることを恐れたユダヤの指導者たちは一刻も早くイエスをだまして捕まえて処刑しようとします。けれども民衆の騒ぎを恐れていました。自分たちに害が及ぶことを恐れていました。

それとは対照的に十字架で死ぬときが近づいたイエスはベタニヤでツァラアトにおかされたシモンの家にいました。ツァラアトの患者は汚れている者とされ誰も近づきませんでした。イエスのひとりひとりに接するご生涯の働きはすべて十字架に対しての愛の歩みでした。

イエスに罪赦されたひとりの女は高価な純粋なナルドの香油をイエスの頭に注ぎました。弟子のイスカリオテのユダは何のために300万もする香油をこんなに無駄にしたのかと女を責めます。

この女は自分の大切なものをイエス様に差し出しました。自分でも何をしているのかわからなかったかも知れません。しかし、イエス様は、「この女は、十字架で死ぬ私のために、油を塗って埋葬の準備をしてくれた。この女は立派なことをしたのです。」と言われます。

私たちが心から、大切なものをイエス様に捧げるとき、それをイエス様はこの上なく喜ばれます。それは、高価な物でなくてもよいのです。イエス様に捧げる心からの感謝の祈りや賛美かもしれません。他の誰かのために何かできることかも知れません。

心をイエス様に注ぎだして、自分自身をイエス様に用いていただくことです。それが礼拝です。それが罪赦された者の生きる姿です。

イエス様は、十字架で一番大切なご自身のきよい命を私たちのために差し出してくださいました。私たちが受けるべき罪の身代わりのために十字架で死んでくださったイエス様を、心から感謝して、信じて救いを受けることが何より、イエス様が喜んでくださることです。

過越しの祭りは旧約のユダヤの民がエジプトから救い出される夜、各家で雄羊の血によって、その家の長子の命が守られたことの記念です。イエス・キリストはまことの過越しの子羊として十字架で死んでくださったのです。

このお方によって、すべて信じる者は罪から救われ、永遠の命が与えられます。

イエス様を信じた者は、神様の子どもとされたことを記念としていつまでも覚えられるのです。あなたはイエス様にとって高価で尊い存在なのです。いつまでも永遠に決して忘れられることはありません。あなたは神様にとって記念すべき存在なのです。

古きは過ぎ去り新しくされる

マルコの福音書13章28-37節より

2021年4月18日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書には終わりの時について、①その日は必ず来る②その日がいつかは父なる神以外は誰もわからないと書かれています。

この世界はすべて過ぎ去って滅びます。そして神が治める新しい完全な罪も悪もない世界に変えられます。生まれ持って罪がある人間はそのままで新天新地に入ることができません。天国に入るためにはキリストを信じて罪赦されて新しく変えられなければなりません。それは今現在の生き方につながっています。世に流されずに、キリストを信じて喜びと希望もつ歩みです。罪赦された者として、キリストに似た者に変えられる歩みです。

この世の終わりには間違った教えや、にせものや悪がはびこります。それらに惑わさないように目を覚ましていなければなりません。目を覚ますとはイエス・キリストから目を離さないことです。いつも、心の中にいるキリストを覚えることです。聖書の言葉に従って生きることです。キリストを愛することです。その時、自分を愛して、他の人を愛する豊かな命を生きることができます。

この世の教えは魅力的に見えますが、一時の流行りで何の力もありません。人間を罪から救う力はありません。罪から救われなければ、以前として罪の奴隷状態で現実は何も変わらず、死んだ後、永遠の滅びに入れられます。

聖書だけが、あなたにまことの知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。

キリストは人間の罪の結果である罪の刑罰を十字架で受け、三日目に死と罪からよみがえられました。そして、あなたのために、悪から守られ、きよめられ、神の愛から離れないように天で祈っておられます。

このキリストの十字架をあなたが自分のこととして、受け入れるならあなたは罪から解放され、新しい命が与えられます。あなたの霊は生きています。

キリストを神の御子と信じる者は、この罪の支配する世の中にあっても勝利者です。

罪に打ち勝つ力が与えられています。死によって滅びない永遠の命が与えられています。キリストに愛を受けて、愛をあらわす者に変えられました。

どのような人生を迎えたとしても、神はあなたの労苦を覚えて、終わりの日に、報いて救ってくださいます。

キリストはすべての人の完全なさばきを行うために必ず来られます。すべての人はこのことを厳粛に受け止め、自分の罪を悔い改めて、キリストによる救いを受けることが必要です。

それが十字架で死なれたキリストの愛に応えることです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書3章16節)

終末に明らかにされる本物と偽物

マルコの福音書13章14-27節より

2021年4月18日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

オリーブ山で弟子たちに話したキリストの終末預言の一部は紀元70年にエルサレム神殿の滅亡で成就しました。飢餓とローマ軍の攻撃によるエルサレムの最後は歴史に残る悲惨な出来事でした。しかし、終末はそれとは比べることができない、天地創造から今までなかったような大患難時代が訪れます。終末で苦しむ人たちが救いを求めることを利用して、偽物の救世主(キリスト)がたくさん現れます。

「この世と世の欲はすべて滅び去ります」と聖書は言います。この世を愛し執着するなら、一番大切な霊の命を失います。この世はきらびやかな偽物をちらつかせて、死を忘れさせたり、死を美化して、恐るべき死の正体である永遠の滅び(刑罰)に陥れようとしています。

死は神に対してすべての人が犯した罪の刑罰です。永遠に続く終わらない苦しみです。キリストは人間を滅びの淵から救い出すために、十字架で死なれ、罪と死に打ち勝ちよみがえられたのです。聖書は過去の事実だけでなく、これから起こることを信じることも大切です。

キリストは必ずもう一度、この地上に来られることを忘れてはなりません。キリストが来られる時は、すべての人にはっきりとわかります。神に対する生き方をはっきりさせる時が来るのです。気づかずにすまされる人は一人もいません。

その時には、すべての人が自分の罪を赦してくださいとキリストにすがります。しかし、その時ではもう遅いのです。

完全な審判者である神のキリストを見たなら、いかなる人も神を信じるのです。それは信仰ではないのです。罪の悔い改めではないのです。神は信仰を喜ばれます。

聖書のみことばの約束により、信仰により、自分が神の前に罪人であり、キリストが救い主であることを信じることが救いなのです。

終わりのさばきで、地上の生きている人も、死んでしまった人もすべての人間がさばかれます。永遠の天の御国に入るか、永遠の滅びに落ちるか、その判断は生きている間に、キリストを自分の罪からの救い主として信じたかどうかだけです。

聖書の始まりは神が天地を創造されたこと。聖書の最後は神であるキリストがもう一度、この世に来られること。そして、このキリストを信じてすべての人が祝福されることを神は望んでおられますと言って聖書は終わります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書3章16節)