イエスとはいったい誰なのか

マルコの福音書8章22-30節より

2020年9月27日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスのなされた奇跡や病の癒し、悪霊の追い出し、また罪を赦す権威ある教え、言葉と行いを見た人々はイエスを偉大な預言者、宗教家であると考えました。

「イエスとはいったい誰なのか」という質問にあなたはどう答えるかはとても大切なことです。それはあなたの生き方を決定します。いえ、死後にあなたが命を得るか、永遠の死に至るかどうかも決まるのです。

世の中にはたくさんの宗教と呼ばれるものが存在します。また立派な宗教家や先生、奇跡を行う人もいます。しかし、イエスはそれらの人とは明らかに違います。それはイエスは人であると同時に、救い主である神であるからです。

イエスが神であると信じる者は初めて自分自身に出会うことができます。そして自分には罪とよばれる神を無視して自己中心に生きる性質があることを知ります。しかし、そのことを悔い改め、神に喜ばれる生き方をしたいと祈り願うとき、イエス・キリストが十字架で身代わりに死んでくださって、自分の罪が赦されたことを知ります。人間は神に赦されなければ、本当の意味で生きることはできません。そのとき自分は神様に愛され、価値ある存在で、生きていいのだと、自分を受け入れ愛することができるように変えられます。そのとき、自分を愛するように他の人を愛するという、神が人間を造られた素晴らしい目的をあらわしていく生き方に変えられていきます。

この神であられるイエスにだけ、真の救い、人生の問題の解決があります。

アーメン。

まことの命のパンであるキリスト②

マルコの福音書8章10-21節より

2020年9月20日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

4000人の給食の奇跡のあとに、天からのしるしを求めるパリサイ人の記事が書かれています。

しるしを見ても彼らの心は閉ざされ、かたくなでイエスを神として信じません。人間の価値観から離れず、神を試すために奇跡を求めて、信じようとしないなら、奇跡は人の心を変えることはできません。聖書が神の言葉であることが何よりの奇跡です。

また4000人の給食の後、弟子たちにはパンが一つしかありませんでした。私たちは神から離れるなら、乏しく貧しい者です。しかし神により頼むならば豊かに富む者とされます。

神なしに生きる人生は、闇の中、救いがなく、それは死を意味します。罪のはかない喜びはむなしいものです。

わずかな菌がパンを発酵させ、ふくらませます。パン種は腐敗した悪をあらわします。世の悪い教えや罪が、人間を神の教えから引き離します。

弟子たちはイエス様の奇跡を見ても、今、パンが一つしかないことしか見ることができませんでした。いくら神様の奇跡を見て、体験しても、それが今の現実の生活の中で働く信仰とされることが大切です。

弟子たちは過去のイエス様の奇跡を忘れたわけではありませんでした。しっかりと覚えていたのです。しかし一つしかないパンの問題を、4000人の食事を用意されたイエス様にお任せすることはできなかったのです。

私たちも、みことばを覚えるだけでなく、それを今の苦難や問題に対して働く力として、信仰とされることを信じていきましょう。

まことの命のパンであるキリスト①

マルコの福音書8章10-21節より

2020年8月30日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

6章の5千人の給食の奇蹟とよく似たお話が書かれています。著者であるマルコ(ペテロ)はここではパンを通して、イエス様を知らせようとしています。

イエス様は食べ物をもたない空腹の群集を心配されます。いつも弱い立場にいる者をかえりみておられます。

弟子たちは、どうしたらいいかわかりません。男4千人に対して、手もとにある食料はパンが7つとわずかな魚しかありません。イエス様はそのわずかなパンと魚を取り、感謝して、裂き弟子たちに配るように言います。

私たちが持っているものはすべて神様から与えられたものです。イエス様は、私たちの必要を満たしてくださるお方です。人間は神に与えられた恵みをただ受け取る存在なのです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ7:7)」と聖書にあります。体を満たすパンだけでなく、人間のたましいに命である霊を与えるためにキリストはまことのパンとして天から来られました。ユダヤ人にとってパンが主食として欠かせないように(日本人にとってご飯)、このキリストを信じて受け入れることがすべての人に必要です。

この4千人の給食の記事は、キリストの十字架の罪のゆるしにともなう永遠の命を表しています。キリストは人間の罪の身代わりに十字架に架かられました。キリストはまことのパンとして、十字架の上で裂かれ、そのきよい血によって、罪をゆるされ、永遠の命をすべての人に分け与える準備をされました。この罪のゆるし、永遠の命を自分のものにするために必要なことは、イエス様の招きにこたえて、今までの罪の生き方を悔い改めて、神様の方に人生を方向転換することです。

人間の罪を赦すことのできるお方は、神であられるキリストだけです。

キリストはまことの命のパン

マルコの福音書8章1-9節より

2020年8月23日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

6章の5千人の給食の奇蹟とよく似たお話が書かれています。著者であるマルコ(ペテロ)はここではパンを通して、イエス様を知らせようとしています。

イエス様は食べ物をもたない空腹の群集を心配されます。いつも弱い立場にいる者をかえりみておられます。

弟子たちは、どうしたらいいかわかりません。男4千人に対して、手もとにある食料はパンが7つとわずかな魚しかありません。イエス様はそのわずかなパンと魚を取り、感謝して、裂き弟子たちに配るように言います。

私たちが持っているものはすべて神様から与えられたものです。イエス様は、私たちの必要を満たしてくださるお方です。人間は神に与えられた恵みをただ受け取る存在なのです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ7:7)」と聖書にあります。体を満たすパンだけでなく、人間のたましいに命である霊を与えるためにキリストはまことのパンとして天から来られました。ユダヤ人にとってパンが主食として欠かせないように(日本人にとってご飯)、このキリストを信じて受け入れることがすべての人に必要です。

この4千人の給食の記事は、キリストの十字架の罪のゆるしにともなう永遠の命を表しています。キリストは人間の罪の身代わりに十字架に架かられました。キリストはまことのパンとして、十字架の上で裂かれ、そのきよい血によって、罪をゆるされ、永遠の命をすべての人に分け与える準備をされました。この罪のゆるし、永遠の命を自分のものにするために必要なことは、イエス様の招きにこたえて、今までの罪の生き方を悔い改めて、神様の方に人生を方向転換することです。

人間の罪を赦すことのできるお方は、神であられるキリストだけです。

言葉によって世界は存在する

マルコの福音書7章31-37節より

2020年8月16日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人々は耳が聞こえず、口のきけない人をイエス様の前に連れてきて、その人に手を置いてくださるように願いました。

イエス様の病の癒しのうわさを聞いて、病人本人がイエス様のもとに来る場合と、誰かに連れて来てもらう場合があります。またイエス様が病人のもとに来られる記事も聖書にはあります。

今日の箇所のろう者が群衆に囲まれたイエス様に近づいて自分のことを説明するのは難しかったのではないでしょうか。

盲人の苦しみや苦労が大変なことは多くの人は知っています。けれど、ろう者の苦痛を思う時、決して比べることなどできません。言葉による意思疎通ができない不便、また音のまったくない世界、音楽のない世界がどんなものであるか、想像もできません。

しかし、イエス様はこのろう者ひとりを連れ出し、耳を開き、口のもつれを解かれました。イエス様の言われたエパタ(開け)という言葉は、身体の一部がいやされ、閉ざされた部分が開かれたことにとどまりません。彼の人格のすべてが解放され自由とされたのです。

今の時代ほど、つながりを求める時代はないかもしれません。人間関係、また神様との関係が、生きるためには必要なのです。

闇の中で、孤立して、罪な生き方を続けるなら、聞くべきことが聞けず、話すべきことを話せません。

話す言葉は自分の耳にも入ってきます。自分の声が聞けなければ、話すことはできません。人間は言葉を通じて、様々なことを知ります。

神様の言葉を聞かなければ、私たちの心は決して変わりません。生まれたままの人間は神様の言葉を聞くことができません。あなたの罪のためにキリストが十字架で死なれたことを信じるなら、神さまに開かれた新しい命をいただきます。

信仰はキリストのおことばを聞くことからはじまります。キリストの言葉があなたの閉ざされていた心を開き、誰かの心を元気にする愛の言葉を語る者にされます。

人に何を言われても、自分の心が責めても、神の選び、キリストの救いを信じぬく

マルコの福音書7章24-30節より

2020年8月9日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスが異邦人の地であるツロに来られた時、ギリシヤ人の女は汚れた霊につかれた自分の娘をなおしてくださるようイエスのもとへやって来ました。

しかし、イエスは女の願いをすぐにはきかれませんでした。神さまの救いのご計画はまずはイスラエルの民を救うことでした。しかし、女はあきらめず、食い下がります。その信仰がほめられて、イエスは女の娘の汚れた霊は追い出されました。

当時、異邦人は汚れた罪人とされていました。けれども、イエスはすべての食物はきよいとされました。イエスの言葉によって信じる者はすでにきよくされています。

神様の救いのご計画はイスラエル民族から始まり、聖書を与え、救い主キリストを与え、サマリヤ人をはじめ、ギリシヤ人、信じるすべての人に救いを与えるのです。すべての民族を含む新しいイスラエルこそが教会です。

あなたは神様は自分のことなど無関心だと思いますか。神様はあなたの心の苦しみ、悩み、悲しみ、罪の汚れをご存知です。その解決のため、ご自分の子であるキリストをすべての人の罪の身代わりとして十字架につけられました。

この女のように、自分は神の救いから見放されたような罪人であるとしても、神さまに近づき、熱心に、あきらめないで、救いを信じ続けるならば、神様は決して拒まれず、救いを与えて下さいます。あなたは必ず、キリストの愛と命を受けます。

キリストこそがまことにあなたを完全に救うことのできるただ一人のお方です。

心の中にあるものが、その人をけがす

マルコの福音書7章14-23節より

2020年8月2日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

旧約聖書にはきよい物とけがれた物について書かれています。宗教に熱心なユダヤ人たちは、自分をきよく守るために、生活のあらゆる場面で、それこそ命がけでした。

食べ物は人の体に入って、消化されて、排せつされるだけで、人の心の中に入ることはありません。

悪い考えや、貪欲、自己中心な心の中の思いが人をけがすのです。それが言葉や行いとなって外側に現れるのです。

ユダヤ人のように外側の行いや儀式を守っても心の中がきよくなることはないのです。

すべての人は生まれながら罪をもっています。人間は罪の奴隷であると聖書は言います。

良い木は良い実を結びますが、悪い木は悪い実を結んで絶対に良い実を結びません。私たちは悪い木なのです。枝や葉ではなく、木そのものが変わらなければ良い実は結べません。すなわち心が変えられなければなりません。

イエス様は、すべての食べ物はきよいと言われます。これは当時のユダヤ人の常識くつがえすような、驚くべき新しい言葉でした。

人間の心を変えることができるのは、罪のないきよいキリストのみ言葉です。

この方を信じて生きるならば、聖霊なる神様があなたの内に住んでくださり、あなたの心の霊は新しくされます。十字架で罪を滅ぼされたキリストという木に接ぎ木され、あなたはきよい性質に変えられ続けるのです。

宗教ではなく、イエスを愛する心により神がきよめられる

マルコの福音書7章1-13節より

2020年7月26日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

宗教に熱心なユダヤ人たちは神の言葉を厳格に守りたいと願いました。自分たちのあらゆる生活の中で神の言葉を忘れずきよくあろうとしました。彼らは、しだいに細かい規則を付け加え、とてつもない多い決まりごととなって自分たちを苦しめる重荷になってしまいます。

彼らの宗教は律法を守ることであり、律法を守らないことが罪であると考えました。しかし、イエスは律法を守ることは、互いに愛すること、助けることだと言います。

わたしたちの住む社会には憲法や刑法や交通規則、いろんな法律があります。しかし、法律は私たちを完全に守ってくれません。

それは、人間は決まり事を完全に守ることができないからです。また、心の悪い思いまでは取り締まることはできません。誰にも見つからないならば、人間は立派にふるまうことは難しいからです。

法律は、外面的な行いを見張ることは出来るかも知れませんが、行いの動機である内側の心を正しく変える力はありません。

法律ではなく、人間の心のすべてをご存知の神様を生きる基準としなければなりません。人間の健全な状態は刑罰がなくても正しく生きることなのです。神を恐れること、悪から離れることなのです。

そのためにキリストはあなたの心のドアをノックして語っておられます。

人間の心をきよく、正しく、健全にするのは、まことにきよいお方であるキリストだけです。キリストが十字架で死んでくださったことを信じるならば、あなたの罪をゆるされ、けがれはきよめられます。

真理であるキリストがあなたを自由にします。そのとき、あなたが神さまに造られた大切な高価な愛された存在として生きるために、神の言葉、すなわち、聖書に従って生きていく心に変えられるのです。

荒野と嵐

マルコの福音書6章45-56節より

2020年7月19日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

5千人の給食の奇蹟の後、イエスは祈るために山へ、弟子たちは舟で湖へと漕ぎ出しました。

私たちは神の奇跡のただ中から、日常へと戻っていかねばなりません。そこで、さまざまな問題や試練に遭遇します。

けれども、イエスと離れて、私たちだけでそれらに立ち向かうのではありません。イエスは弟子たちが向かい風のために船を漕ぐのに苦労しているのをご覧になっているのです。イエスはあなたをいつも見て、知っておられます。

「わたしはある」とおっしゃる永遠の存在なるお方を受け入れるなら、あらゆる恐れは取り去られます。

真っ暗な嵐の中でひとりぼっちに思える時も、イエスはあなたのすぐそばにおられます。問題は私たちの心が鈍くなって、心の目が閉ざされて、イエスがおられることを信じられないことです。

神の奇蹟が行われる山の上、荒野から救い出される神を体験して、山を下って、嵐の海で、信仰をもって神の力を知り、神の存在を離れずに生きていきましょう。

キリストが十字架で命を与えるパンとして割かれ、信じる者はキリストの命と一つとされました。キリストはいつもあなたのそばにおられます。いかなる力もあなたとキリストの愛から引き離すことはできません。その時、嵐はやみ、混乱は平和に変わります。

まことの命のパンを与えるキリスト

マルコの福音書6章30-44節より

2020年7月12日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

この5千人の給食の記事は4福音書に記されている最大の奇蹟です。毎日世界の人間の食べ物を与えられる神様の命の奇蹟をあらためて覚えます。

イエス様は羊飼いのいない羊のような群集をみて、深くあわれまれ、ご自身の休み時間も忘れて命の言葉を語られます。羊飼いがいなければ、羊は歩むべき道がわかりません。食べ物を手に入れることができません。敵に対して身を守ることができません。病の癒しが必要でなくても、たましいは疲れ病んで、イエス様なしでは私たちはさまよう羊のような弱く無力な存在なのです。

イエス様は少年の5つのパンと2匹の魚から約2万人の空腹をいやされます。この少年の差し出したパンはもっとも貧しい者たちの食物とされる大麦の小さいパンでした。神さまは小さくても神様のために喜んで与える者を祝福してくださいます。

十字架で命を捨てられたイエス様こそが、天からのまことのパンであり、罪の世に下り、永遠のいのちを与える神のパンなのです。

天にかざし祝福してさかれたパンは十字架でさかれたキリストの体です。キリストは私たちをあわれみ、日ごとの糧を与え、たましいの飢え渇きを満たす、霊の糧を注いで下さいます。

働き疲れて、何も持たない弟子たちをイエス様は試され、訓練されます。与えてくださる方、頼るべきお方は復活されて今、生きて働かれるイエス様なのです。