後期高齢者の子供時代の思い出

公開済み 7月 28, 2024 by 管理人 in アドナイ・エレ

~ 授業を中断して 、みんなで溝にはまった車を押す~

以前お話ししたように、私は父の仕事の関係で、種ヶ島で生まれ屋久島で育ちました。まだまだ終戦後で、どこも生活は貧しく大変でしたけど、楽しく貴重な体験の日々でした。

私の幼少期、私の田舎では幼稚園等はありませんでした。それで、いきなり小学校に入学いたしました。私にとっては待ちに待った楽しい小学校生活でした。しかし、当時は給食等がなく、弁当を持って登校したり、あるいは昼食を食べに家に帰ったりしていました。

そして、鹿児島本土との交通は船だけでした。大型船が着く港がなかったので、艀(はしけ)舟と呼ばれる小さな舟に乗って、沖に泊まった船まで行って、それに乗り移るのですが、艀舟は波に揺れて上下します。ですから、艀舟が波に押し上げられて客船の入り口に近づいた時にヒョイと飛び移ります。

当然、島には飛行場がなかったので、飛行機を見ることはほとんどありませんでした。それで授業中でも飛行機の飛ぶ音が聞こえると、皆教室を飛び出して飛行機を見に走り、遠くの飛行機に大声で「おーい、おーい」と叫びながら手を振りました。

授業中に飛び出すと言えば、こんなこともありました。それは中学生になってからのことですが、私たちは数学の授業中で、先生の説明を聞いていました。すると、窓から顔を出したおじさんが「ごめんなぁ~。車が溝に落ちたのでみんなで押すのを加勢してくれや。」と言いました。それで、私たちは授業を中断して、外に出て溝にはまった汲み取り車をみんなで押しました。今考えると信じられない出来事です。

さて、私の5~6年生時代の先生は大の相撲好きでした。島では新聞は船で来るので夕方にしか着きません。また、海が時化ると数日届かないこともあります。それで、その先生は自分で星取表を造ってラジオを聴きながらそれに日々の勝敗を書き込んでいました。

その内に、自分のクラスの男の子たちを横綱から幕内までの番付に振り分けて、全員1日1番ずつ相撲を取らせて星取表に書き込むことをはじめました。私は身体が小さかったのですが、相撲はそれなりに強かったので、大関にランクされていました。

結局優勝したのは、身体の一番大きな横綱のS君で14勝1敗でした。私は11勝4敗でしたが、優勝したS君に唯一の土をつけたのが私でした。それで、先生から殊勲賞として、ノートか何かを貰ったように思います。本当の相撲では大関になると三賞はいただけないのですが、特別だったのでしょう。

その先生が、ある時みんなに「明日からはみな弁当に芋を持ってくるように」と言われました。母にそのことを伝えると、父は公務員だったので、芋をわざわざ買って来て持たせなければいけなかったので、「どうしてなの?」と不満げでした。

しかし、実は先生がそう言われたのは、クラスの中にご飯ではなく芋しか食べられない子たちがいたので、その子たちが学校に芋弁当を持ってこられる様にそう言われたのだということが分かりました。

私が、相撲が強かったのも、そういう満足に食事が食べられない子たちがいたからだったのかもしれません。

私は、いま世界の飢餓の働きに関わらせて頂いていますが、今も世界にはあの時の貧しい子供たちと同じように満足に食べられない子たちがいることを思い、できることをしようとしています。これも小さいころの経験と関係あるのかもしれません。

もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。ヤコブ2:15~16

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