収穫感謝日について
~ 天のお父様、このお食事を感謝します ~
先日、教会の礼拝後に、月に1度行われる愛餐会がありました。そこに、初めて礼拝に来られたご夫妻も参加され、またいつも参加して下さるロシアのご夫妻も来られました。
お食事には、お隣のご主人が釣って来られて下さったイカも入ったおでんをいただきました。そして食後には、柿や初参加のご夫妻が下さったミカンだけでなく、先日オマーンに行かれた女性が、聖書出てくるナツメヤシの実の食べ物を買って来られて提供して下さり、また他にも、ロシアの方が提供して下さったリンゴの実をドライフルーツにして食べやすく小さくしたものやサンザシといってチョコレート色のスティック状のドライフルーツ(ロシアでは、画像を見ると一回り大きくて白い)など、珍しくて美味しいもの等が出ていました。
秋になると、柿やミカンだけでなくリンゴやナシ、ブドウや栗などたくさんの果物が店頭に並び、私達を楽しませてくれます。
そして、これらの美味しい果物や収穫物はたまたま実ったのではなく、天地万物の創造主なる神様が私たち人間や動物等を養うために造られ、与えて下さったものなのです。
さて、以前次のようなお話を聞きました。ある日の夕方の食事前に、教会幼稚園に通っている男の子が、幼稚園で教わった『感謝のお祈り』をしました。「天のお父様、このお食事を感謝します。」すると、お父さんが「おいおい、俺はまだ死んでないぞ、ここにいるよ。」と言いました。それに対して、男の子は「天のお父様というのはお父さんじゃないよ。神さまのことだよ。」というと、お父さんが「このお食事を君たちに食べさせているのは、天の神様じゃなくて、お父さんだよ。お父さんが汗水流して働いてお金を得て、それで食べ物を買って君たちに食べさせているんだよ。君が感謝する相手は神様じゃなくてお父さんだろ。」と言いました。
確かにお父さん、お母さんが働いて得たお金でお食事が出来るのだから、両親に感謝することは良いことです。しかし、幾ら沢山のお金を稼いでいても、世の中に食べ物がなかったら、それは何の価値もありません。
それでは、食べ物は偶然生え出てきたものなのでしょうか?そうであるなら、私たちが食べておいしいと思えるような食べ物にはならないのではないでしょうか。
それらがあるのは、万物の創造主なる神さまが私たちを愛して下さって、私たちにたくさんの美味しい食べ物を備えて下さったからなのです。それらの食べ物は私たちが美味しく食べることができるように、色や形、大きさや食感の違いが与えられるだけでなく、それらの一つ一つには私たちの健康を支える様々な栄養素が含まれています。
これらは、すべて神さまの愛によって私たちに提供されたものなのです。それも食べてなくなるのではなくて、種を蒔いたら、何度でも再生できるようにしてくださいました。こんな食べ物が偶然できたと考えるほうが不自然なように思います。
ですから、私たちはそれらの食べ物を頂く前に、まずそれらを与えて下さった創造主なる神さまに感謝するのです。
それで、私たちの教会の収穫感謝日(11/23)には、その事を覚えて皆で様々な収穫物を持ち寄り、神様の恵みを感謝しつつ礼拝を捧げます。
そして、主なる神様に感謝礼拝をささげた後で、日頃私たちのために働いて下さっておられる交番や学校等に、それを持って行って地域住民の為の日ごろのお働きに感謝をいたします。
神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。創世記1:11

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