マルコの福音書15章42-47節より
2021年7月4日主日礼拝メッセージ
アリマタヤのヨセフは裕福で立派で正しい人で、神の国を待ち望んでいました。イエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していました。
しかし、十字架でイエスの死を目撃して、イエスの体の引き渡しをユダヤ総督ピラトに願い出ます。自分の身に危険が及ぶことも恐れないでヨセフはイエスのために行動したのです。かつての彼からは考えられません。十字架のイエスに出会ったなら人は必ず変えられるのです。
人の愛、大切な人の死によって人は生き方が変わるかも知れません。しかし、その人自身を内側から造り変えることができるのは神であるイエス・キリストだけです。
人間の生き方は2つしかありません。
①自分の欲を満たすために罪から離れずに生きる。②神を恐れて、悪から離れて生きる。
聖書は①を罪と言います。やりたいことを何でもすることが自由でしょうか。いいえ、本当の自由とはまことの神を信じて、聖書の言葉に従う生き方です。神から離れるなら人間は罪の奴隷となります。奴隷は自由ではありません。自由とはキリストを受け入れる信仰によって神から与えられる恵みのプレゼントなのです。
ヨセフは他の議員たちと同じようにではなく、イエスに対して自分のすべきことを行いました。それは、自分の罪と決別して、イエスに近づくことでした。ヨセフはイエスの十字架により自分の罪を知り、古い自分を十字架で埋葬して、信仰によって新しくされたのです。
ヨセフはイエスの体を洗い、清潔な亜麻布で包み、新しい墓にイエスを埋葬しました。ヨセフによってイエスは丁重に葬られました。ヨセフの迅速な行動によって、イエスの埋葬を安息日に入るまでに終えることができたのです。
すぐに、いかなる仕事もしてはならない安息日に入りました。前日の十字架の出来事は嘘みたいに静まり返ります。
しかし、この安息日こそが、神の救いのみわざの始まりです。それは、信じるすべての人を罪の束縛から解放するまことの安息です。人間を罪による死の滅びから救い出して、永遠の命を与える、ただひとつだけのキリストの救いです。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」
(ヨハネの福音書53章39-40節)