ヨハネの手紙 第一2章1-2節より
2022年1月23日
世界には昔から、様々な宗教があります。一時、世に影響を与えた宗教も、やがて消えていきます。そんな中でキリスト教は、歴史と共に存在し、今も益々世界で広がっています。いわば、キリスト教は海へと流れ込む大河の本流で、他の教えはやがて、細く狭まり渇れていく支流に過ぎません。
キリスト教とは何なのでしょうか。
それは、神が人間に働きかけるまことの救いです。神がご自身を明らかにされる聖書のメッセージは、神に造られた人間(神との関係によって存在できる)への愛と平和の回復です。それを明らかにしてくださったのはキリストの十字架です。
聖書の教えを守れない人間に、行ないではなく、信仰による神との和解をキリストにより用意してくださったのです。そのキリストの義(神と人間の正しい関係)を誰もが受けることができるのです。
その手段が信仰です。例えるなら、洗濯された清潔な服は用意されています。その服に袖を通して着ることが信仰です。美味しい食べ物はあります。それに手を伸ばして食べる、手が信仰です。
人間に神の正しさはありません。しかし、神の用意してくださった正しさ~罪なきキリストが十字架で死なれたことによる正しさ~を受ける者は、神にとって、正しい者とみなされるのです。
信仰がキリストの十字架の意味とあなたを結びつけるのです。
すべての人は罪人であり、罪の刑罰は死、永遠の滅びです。この現実を、まったく変えるメッセージが十字架の福音です。
義なる神は人間の罪をあいまいに赦すことできません。しかし、ひとり子のキリストをその刑罰の十字架に架けることにより、ご自身の義(正しさ)と愛を現されたのです(ローマ人への手紙3章21-30節)。
人間の喜びは交わり(コミュニケーション)にあります。時代が変わっても、手段が変わっても、人は関係を求めているのです。宗教とは何でしょうか。実は人格の交わりなのです。人間と神との関係(コミュニケーション)なのです。人間が神の前に心から喜び生きることなのです。
それを断絶するものが罪です。その罪の罪責に苦しむ人間をキリストは父なる神の前にいつも弁護してくださいます。その弁護は完全に力あるものです。なぜならキリストが十字架で罪の代価を支払ってくださったからです。
罪により、死の刑罰に絶望した人間の取りうる選択を信仰と言います。神の恵みに応答することです。
今日キリストの十字架の救いをお受けしましょう。