コリント人への手紙第一1章26-31節より
2022年10月23日
<聖書>
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
(コリント人への手紙 第一1章26-31節)
<説教>
神はこの世では価値のないような者を選んで、信仰を与えられます。イエスを信じた者は取税人や遊女のような罪人でした。天国で一番偉い者とは、幼い子どもだとイエスは言われました。
この世と天国では価値観はまったく違うのです。自分が無力で価値のない者とする者が、天国に入ることができます。それは自分を低くして、弱い者を受け入れるへりくだった者です。
神は自分の価値を世の中にアピールする者ではなく、小さな弱き者を用いて、神の存在を現されるのです。
人間はいつ、自分がちっぽけであると知るのでしょうか。宇宙の広さと比べるときでしょうか。愛する人を守れないときかも知れません。しかし人は罪深い自分の姿を見たとき、自分の小ささを知ります。無に等しいような自分に絶望します。罪とは神から離れて自分を損ない失っている状態のことです。神の前にすべての人は罪人です。神の前に自分の小ささを知る者は幸いです。
神に造られた人間は有限である被造物です。有限ですから、不完全で誤りがあり、誘惑に弱く、失敗もします。しかし聖書は、そうであっても、あなたはあなたでいいのだと教えてくれます。それを隠したり、諦めたり、無理に大きく見せようとしないでいいのです。
自分の罪深さ、汚れ、弱さを認めていいのです。自分には何の価値もなくていいのです。人間はそれを認められず、また恐ろしくもありましょう。それは決して人生の敗北ではないのです。かえって勝利の人生のスタートです。
誰よりも、自分を小さく、貧しく、むなしくしてくださった方がおられます。神のイエス・キリストです。
最も偉大な存在である神はすべての所有者で、宇宙と世界と歴史と命を支配しておられます。そのすべてに豊かな神が、もっとも小さい者の姿になられたのです。神であるキリストが人間の罪のために人となって十字架で死んでくださいました。あなたの罪の身代わりの犠牲となられました。あなたに愛を示してくださいました。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 (ピリ2:6-8)
あなたは、取るに足りないさき者です。しかし大切なことは最も偉大な神につながることが出来るということです。自分の罪を神の前に正直に言い表すならすべての罪は赦されます。このとき、小さい人間が偉大な神とひとつとされる人の理解を超える奇跡が起こります。そのとき無に等しい者が、永遠に価値ある者に変えられます。
これからは罪に背を向け、神に向いて生きるのです。イエス・キリストを通して、神さまの大きな愛と恵みを受けて、いつもあなたは、しっかりと存在して、自分の価値を喜んで生きるのです。
あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
(詩篇8:3-5)
かつて、天の無数の星を見上げては
私は誰にも知られることのない
いてもいなくてもよい小さい存在だと
言い聞かせていた。
しかし今は、小さい無のような私を
完全に知ってくださる方がいることを信じている。
私の存在を覚えて、愛して下さるお方を。
それは星を造られ、私を造られたお方。
十字架で私のために死なれたキリスト。
(作者不詳)