神のいのちは死に打ち勝つ

ヨハネの福音書11章17-27節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月27日

<聖書>

17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは(はか)の中に入れられて四日もたっていた。
18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど(はな)れた所にあった。
19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて(なぐさ)めるためであった。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて(むか)えに行った。マリヤは家ですわっていた。
21 マルタはイエスに向かって言った。「(しゅ)よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 今でも私は知っております。あなたが神にお(もと)めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを(しん)じる者は、死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを(しん)じる者は、決して死ぬことがありません。このことを(しん)じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい。(しゅ)よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と(しん)じております。」

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)11章17-27節)

<説教>

<ラザロの死>

イエスにとって、ラザロとその姉妹マルタ、マリヤは家族のようにゆっくりとやすめる故郷(ふるさと)のようでした。その愛するラザロが死んだことは、家族にとって大きな(かな)しみでした。
イエスご自身もラザロの死を(かな)しみ、家族や()()いの人たちと同じように(なみだ)を流されました。
イエスは神でありながら、人としてこの世に(つか)わされました。神に泣いたりする感情があるのはおかしいでしょうか。聖書(せいしょ)に書かれる、まことの神は、人間を愛され、(かな)しまれたり、(よろこ)ばれるお方なのです。

<イエスはラザロをよみがえらせた>

死の(かな)しみに()れる家族の前で、イエスはラザロを死からよみがえらせました。
死の恐怖(きょうふ)におびえる人たちに、神は死に()()つことができることを知ってもらいたかったのです。
イエスは愛する者を死からよみがえらせることがお出来になるのです。愛する者とは、すべての人間です。神はすべての人を愛して、イエスを信じていのちを(あた)えたいのです。
死んでから4日()ったラザロのよみがえりは、イエスが人間の(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死なれて、3日目によみがえることの「しるし」です。
神だけが、人類(じんるい)最後(さいご)(てき)である「死」も(ほろ)ぼされるお方です。

キリストの支配(しはい)は、すべての(てき)をその足の下に()くまで、と(さだ)められているからです。最後の(てき)である死も(ほろ)ぼされます。

(Ⅰコリント15:25-26

<イエスはなぜよみがえったのか> 

1.人間を死の支配(しはい)から解放(かいほう)するため

すべての人間にとって死は不気味(ぶきみ)()けることのできない(わざわ)いです。人間はこの死を()()ろうと努力してきました。医療(いりょう)(いた)みを()(のぞ)いたり、不気味(ぶきみ)墓地(ぼち)のイメージを○○○メモリアルという名前で明るく、楽しい雰囲気(ふんいき)にしたりします。
しかし、それは死の(おそ)ろしさの裏返しです。いくら目をそらしても死が(おそ)ろしい証拠(しょうこ)です。死は人間から希望(きぼう)()()り、人生に大きな(かげ)()げかけ、そのため人間は正しく、きよく、愛をもって生きることができません。どうせ、死んだら終わりだと考えて、欲望(よくぼう)のまま生きてしまうのです。
イエスはよみがえりであり、いのちです。神だけが人間を死から解放(かいほう)して、いのちを(あた)えることができるのです。イエスは死んで、よみがえりました。それは決して死ぬことはない、神のいのちです。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔(あくま)という、死の力を持つ者を(ほろ)ぼし、(いっ)生涯(しょうがい)死の恐怖(きょうふ)につながれて奴隷(どれい)となっていた人々を解放(かいほう)してくださるためでした。

(へブル人への手紙2:14-15)

2. (ふる)い人、(つみ)性質(せいしつ)が死んで、神のいのちを()けて新しく生まれるため

イエスを信じる者は、十字架(じゅうじか)で死なれたイエスとともに、(ふる)い人も死に、よみがえられたイエスとともに、永遠(えいえん)のいのちを(あた)えられて新しく生まれ変わることができるのです。
イエスの死は、私たち人間の死とは(ちが)います。人間の(つみ)身代(みが)わりに死なれたのです。これは人間にはできません。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく(つく)られた者です。(ふる)いものは()()って、見よ、すべてが新しくなりました。

(Ⅱコリント5:17)

 3.日々、(つみ)に打ち勝って生きる力が(あた)えられるため

(つみ)に対して弱く、(つみ)奴隷(どれい)であった私たちが、イエスの復活(ふっかつ)のいのちが私たちの内で(はたら)かれて、(つみ)に打ち勝つ力によって日々歩めるようになります。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに(ほうむ)られたのです。それは、キリストが御父(おちち)栄光(えいこう)によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

(ローマ6:4

すべての人間にはやがて肉体(にくたい)の死を(むか)えます。しかし、すべての人間は神に()を向けて生きた(つみ)によって刑罰(けいばつ)の死があるのです(永遠(えいえん)の死、第二の死)。これは永遠(えいえん)(ほろ)びであり、愛の神から永遠(えいえん)(はな)れてしまう(おそ)ろしい永遠(えいえん)孤独(こどく)です。
イエスを信じるなら、この永遠(えいえん)(ほろ)びの死から(すく)い出されます。イエスを信じる者の肉体(にくたい)の死は、永遠(えいえん)のいのちが始まるための、一瞬(いっしゅん)()()る入口に()ぎません。

どんなに生きることが(くる)しくても、死は(すく)いではありません。イエスを信じることだけが(すく)いの道です。

苦しみから与えられる慰め

コリント人への手紙第二1章4-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月20日

<聖書>

4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを(なぐさ)めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける(なぐさ)めによって、どのような苦しみの中にいる人をも(なぐさ)めることができるのです。
5 それは、私たちにキリストの苦難(くなん)があふれているように、(なぐさ)めもまたキリストによってあふれているからです。
6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの(なぐさ)めと救いのためです。もし私たちが(なぐさ)めを受けるなら、それもあなたがたの(なぐさ)めのためで、その(なぐさ)めは、私たちが受けている苦難(くなん)と同じ苦難(くなん)()()く力をあなたがたに与えるのです。
7 私たちがあなたがたについて抱いている(のぞ)みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、(なぐさ)めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に(はげ)しい、()えられないほどの圧迫(あっぱく)を受け、ついにいのちさえも(あやう)くなり、
9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟(かくご)しました。これは、もはや自分自身を(たの)まず、死者をよみがえらせてくださる神により(たの)む者となるためでした。
10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという(のぞ)みを、私たちはこの神に置いているのです。

(コリント人への手紙第二1章4-10節)

<説教>

キリストを信じる前のパウロは、自分自身により(たの)み、キリスト者たちを迫害(はくがい)して苦しめて暴力(ぼうりょく)をふるう者でした。パウロは神を信じていても、現実は自分の力を(ほこ)って生きていたのです。現実の生活では神に従っていなかったのです。
(つみ)とは神から(はな)れて、自分に(たよ)って生きる状態です。人生が自分のためにあると思うことです。そこから現実にあらわれる罪深(つみぶか)言動(げんどう)によって、私たちは苦しみ、それは解決することなく、(ほろ)びへと向かいます。たとえ自分で苦しみを解決しても、自分の力を(ほこ)り、高ぶるようになることも多くあります。
しかし、神を信じる者の苦しみは、キリストがお受けになった苦しみを共にすることです。みことばに従って、愛に生きる者の苦しみです。苦しみによって自分の弱さを教えられます。
神はその苦しむ者を(なぐさ)め、ますます神をより(たの)む者へと(つく)り変えて、キリストに()た者へと内から変えてくださいます。
そして、苦しみの中にあるパウロは、苦しみの中にある教会の人々を(なぐさ)め、ともに成長する家族のように生きていきます。苦しみも(なぐさ)めもキリストにあって一つなのです。以前のキリストを迫害していたパウロもまた、兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)たちの(なぐさ)めと愛によって、キリスト者として(むか)()れられたのです。
パウロは自分の意思によって使徒になったのではなく、神の御心(みこころ)によって使徒になったという確信がありました。これが、どんな苦境(くきょう)困難(こんなん)に出会っても、めげることのない理由だったのです。

私たちの大祭司(だいさいし)は、私たちの弱さに同情(どうじょう)できない方ではありません。(つみ)は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、(こころ)みに会われたのです。                                                             

(ヘブル人への手紙4:15)

キリストの十字架(じゅうじか)を信じて、(つみ)(ゆる)しを与えられた者の特徴(とくちょう)は、素直(すなお)さ、謙虚(けんきょ)さです。
表面的な良い人ではありません。キリストを愛して生きようとする時、自分をごまかしたり、いかなる言い訳もむなしく感じられるのです。キリストは私たちの心の中を気付かせてくださいます。そして、愛することだけが、神を信じて(したが)うことだと教えてくださいます。
そのように生きようとする時、私たちはキリストの苦しみを共にするのです。
苦しみを経験した者は、他の誰かが受けた同じ苦しみを理解することができます。苦しみを経験した者は(なぐさ)めることができるのです。
キリストは父なる神様に(したが)われ、(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)に架かられました。(つみ)を犯すこと以外は、すべての人間の受ける苦しみを経験されました。
このキリストは、あなたの苦しみを経験され、あなたを理解して(なぐさ)めてくださる方です。そして、その苦しみを通して、愛とまことの人にあなたを変えてくださります。喜びと平安、人を愛する価値ある人生を与えてくださいます。
パウロは言います。

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒(しと)パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒(せいと)たちへ。                             (Ⅱコリント1:1)

キリストを信じて生きるあなたは、神の教会の、使徒(しと)聖徒(せいと)なのです。いつも神はあなたと共におられます。