ルカの福音書7章36-50節より
2023年11月26日
<聖書>
さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、
泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。
するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。
「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。
そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。
あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
(ルカの福音書7章36-50節)
<説教>
パリサイ人のシモンはイエスを食事に招きました。
そこに招かざる、ひとりの罪深い女がイエスのために自分のできる最高の愛を捧げます。
町中の者が、この女の悪い噂を知っていました。おそらく遊女であったと思われます。この女自身が、自分の罪深い生き方をこれ以上続けられないどん底に苦しんでいました。そんな時、イエスの噂を聞きました。
イエスは多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、死人をよみがえらせ、貧しい者たちに罪の救いの福音を宣べ伝えていました(ルカ7:21-23)。
「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」
(マルコの福音書2:17)
もう女は、明日を生きる力もありませんでした。なぜこんな人生になってしまったのか。愛されたい。心から喜んで生きたい…すべての希望は消え去っていきました。
そんなときにイエス様のことを聞いたのです。そして、彼女はイエス様を信じて、心のありのままをイエス様に祈ったのです。
その瞬間でした。彼女の重い心が、傷が、罪責が取り去られたのです。
内から溢れる愛と感謝を押さえきれずに、彼女はイエス様に会いに行きます。
このパリサイ人のシモンはイエスを預言者かも知れないと思いました。今、あちこちで評判のイエスの人気にあやかろうと招きました。当時の客人をもてなす当たり前の、足を洗う水も、祝福の口づけも彼にはありませんでした。
罪深い女とシモンの違いは何でしょうか。それは自分の罪の自覚の違いです。
イエスが言われた、たとえの借金の金額のように、自分の罪を数量で測ることはできません。ただ自分の罪の自覚によるのです。そしてパリサイ人シモンと女の違いは、愛する生き方において明らかになるのです。
「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。
それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
(ルカの福音書7:47)
神はどんな罪も赦してくださるのでしょうか。そうです。赦されない罪はありあません。
人間ならば、償い切れない罪があるかも知れません。しかし、神の前では赦されない罪はないのです。それは、私たちが罪を償うのではなく、キリストが人間が負うべき罪の刑罰を身代わりに十字架でご自身のきよい命によって払ってくださったからです。
シモンはイエスが罪の赦しを宣言した事実が、わかりませんでした。
しかし、この罪深い女が、香油を塗り、涙でぬらして、髪の毛でぬぐった御足、そのお方は預言者どころか、この地上で唯一、人間の罪を赦すことが出来るお方、救い主だったのです(マルコ2:10、使徒4:12)。
すべての人は、神を見なければなりません。このキリストなる神さまによって罪を赦されなければなりません。その重荷はあなた一人で負うにはあまりにも重すぎるのです。
この女の姿こそが信仰に生きる者の姿です。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
(ヘブル人への手紙11:6)
「しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」」
(ルカの福音書7:50)
この「安心して行きなさい」は平安に入りなさいという意味です。
そして、赦された者は、愛する者として生きるのです。
イエスを信じて罪の重荷をおろして、愛と平安と喜びの人生に生きていこうではありませんか。