ヨハネの福音書7章53節-8章11節より
2023年12月10日
<聖書>
〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、
イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
(ヨハネの福音書7章53節-8章11節)
<説教>
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て(ヨハネ8:3)
当時のユダヤ社会では、殺人と偶像礼拝、そして、この姦淫の刑罰は死刑です(石打ち)。
この女を罪に定めるのか、どうするかによって彼らはイエスを罠にかけて、議会に告発して、葬り去ろうとします。
律法学者らは、姦淫の女をイエスや群衆の真ん中に置きます。彼らは、もはや罪を犯した女を、まるでもののように扱いました。イエスを陥れるための道具のように。
しかし、イエスは驚くべきことを言われます。
イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
(ヨハネ8:7)
それは、姦淫の罪を犯しただけでなく、心の中で淫らなことを一度も考えたことのないものだけが、この女に石を投げることができるという意味でした。
姦淫の罪は死罪です。婚姻関係のない者が性的な行為を行うことは死罪です。
しかし、イエスは女を罪に定めるのではなく、女を連れてきた連中や、好奇な目で女を冷たく見る群衆たちの罪を指摘したのです。
自分が正しいと考えることは、多くの場合、罪の根本的な姿勢と言えます。イエスの前では、誰も自分に罪がないと言って、女に石を投げることはできないのです。
誰も人の罪はもとより、些細なことを人間的な判断でさばいてはいけないと聖書は教えます。それよりも自分の罪をよく吟味すべきです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
(マタイ7:3)
ひとり、またひとり去っていき、イエスと女だけが残りました。イエスに女を非難する姿勢は見られません。
そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
(ヨハネ8:11)
いかなる権威ある律法(法律)もその正しさだけで、いかなる人もさばいてはいけないのです。どんな罪を犯した者にも、その人格を認め、罪に定めることが最終的目標ではなく、その人を善に向かわせることが目的なのです。
イエスは、その人の過去をご覧になるでしょう。しかし、その人の未来をもご覧になるのです。その人のこれからの生き方を信じて、その罪を赦されようとします。かつての罪人が、イエスを信じることにより、善人、愛の人に変えられることをイエスは何より信じているのです。
この「イエスと姦淫の女」の記事は、姦淫の罪が軽くあしらわれることを恐れて、写本によっては省かれています。
しかし、イエスは姦淫の罪をいとも簡単に赦されたのではありません。この女性だけでなく、彼女を告発した律法学者やパリサイ人たち、いえ、すべての人間の罪を十字架の上で、ご自身の罪として受けようとされるお方の罪の赦しの宣言です。
今からは決して罪を犯してはなりません。(ヨハネ8:11)
赦された者としての、罪との戦いがあるでしょう。しかし、イエス様は私たちをどこまでも信じてくださいます。また罪に打ち勝つ力も与えてくださいます。
罪人は罪に定められて当然と考えるかも知れません。しかし神さまの道は人間とはまったく違うのです。
【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
(イザヤ55:6-9)
神さまは、罪人である人間を罪に定めることより、その罪をご自身のひとり子であるイエス・キリストによって罪の刑罰を受けてくださいました。なぜなら神は愛だからです。
人として来られたイエス様は、罪人をさばきません。神さまはイエス様にさばく権威を与えられていることも事実です。しかし、神さまはイエス様の十字架によって罪の赦しを用意してくださいました。
その救いに対して、その人がどのように応答するか、その態度と姿勢(これを信仰と言います)によって罪に定められるのです。