マタイの福音書1章1-17節より
2024年1月21日
<聖書>
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、
ソロモンにレハブアムが生まれ、レハブアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、
アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、
ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、
ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、
エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
(マタイの福音書1章1-17節)
<説教>
①イエス・キリストはアブラハムの子
ユダヤ人は家系図に非常に関心を持ちました。それは出来る限り民族の血統を保とうとすることを大切にしたからです。わずかでもユダヤ人以外の血が入ると、ユダヤ人であり、神の民の資格が失われたのです。
例えば、祭司はモーセの兄のアロンにまでさかのぼる系図を提出する義務がありました。
私たちには退屈に思える系図も、ユダヤ人にとっては、キリストの系図が、ユダヤ人の祖先であるアブラハムまでさかのぼることは非常に感銘深いものなのです。
②イエス・キリストはダビデの子
また、この系図はキリストがダビデの子であることを証明するものです。この大切な事実を新約聖書はくり返し強調します。
「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」
(Ⅱテモテ2:8)
盲人たちもイエスに叫びました。神がわからなくなった人生の迷子である私たちもイエス様に叫び求めるなら、神さまがわかるように心の目を開かせてくださいます。
「彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。『主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。』」
(マタイ20:29-30)
十字架に向かわれるイエス様が最後のエルサレムに入城されるときも、群衆はイエスをダビデの子として歓迎しました。
ところでイエスをダビデの子と呼んだのは、群衆、庶民、一般の人たちでした。彼らは熱心に待ち望む人々でした。目の前は、いかなる現実に見えようとも、いつか必ずダビデの子孫が現れるのを信じたのです。そのとき、神の栄光によって、彼らが神に報われることを夢見たのです。
確かに、今はイエス・キリストに同意できない人たちもいます。そんな彼らの夢の実現の形は、力と富、物質的な繁栄、野望の実現です。
しかし、すべての人類の最初の夢、平和と愛の完成という夢が実現するとすれば、イエス・キリストによってのみ可能なのです。
人として来られたイエス・キリストの中に預言は成就したのです。旧約聖書で昔の預言者のことばは実現したのです。預言を軽く見てはいけません。預言は偉大な神の真理が含まれているのです。この天地万物、この世界のすべて、もちろん一人一人のあなたという人間の存在も、神の目的と計画によって起こったのです。
この歴史は終着点のない道ではありません。すべての命と世界はあてどもなく移り変わるのではなく、神の確かな目的地に向かって進んでいるのです。
③ 神のあわれみの福音はすべての人ために
この系図で驚くべきことは女性の名前が含まれていることです。ユダヤの系図は普通、女性の名前は記されません。しかも、この系図の4人の女性の身分や行為を知る時、さらに驚かされます。
ラハブはエリコの遊女でした。ルツはモアブ人。悪名高いモアブ人でした(民数記23:3)。タマルは舅のユダをあざむき姦淫を犯しました。ダビデ王が姦淫と殺人の罪によって部下のウリヤから奪い取ったバテシュア。
ユダヤ人と異邦人の差別。男女の差別も、そして罪深い人間と神との隔ての壁である罪を神は取り除かれました。
それこそが、この系図の目的であり、イエス・キリストによる神の福音の神髄を示すものなのです。
このような問題ある罪人がイエス・キリストの系図にあること自体が、けっして変わることのない神の愛が現されているのです。
神は不思議にも、大きな罪を犯した人たちをご自分の目的のために用い、ご自分の計画の中に取り入れられるのです。
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
(エペソ2:14-16)