マタイの福音書4章1-11節より
2024年3月3日
<聖書>
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
(マタイの福音書4章1-11節)
<説教>
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
(マタイ4:5-6)
- 悪魔もみことばを引用する。
悪魔も詩篇91篇11-12節の御言葉を使ってイエスを誘惑します。しかし、よく見ると御言葉の内容が変えられています。悪魔は自分に都合のいいように御言葉を変えているのです(聖書の改ざん)。この世の言葉も正しそうであっても、人々を悪い思いや間違った行動へと誘うことが多いのです。
そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。 (ヤコブの手紙3:15)
わざわざ自分を危険な状態にして、神が助けてくれるか試す必要はないのです。人間は神の愛とみわざを疑うとき、自分の納得できる証拠を求めてしまいます。自分の方法で解決しようとします。いつも神の御言葉に立ち返り、御言葉による信仰の歩みが必要です。
詩篇91篇は神の保護(守り)について書かれています。それは、特別な時だけでなく、どんな時も神様を信頼するべきであり、人間のいのちと存在そのものが、神の御手にある完全な守りだというのです。神さまへの愛と信頼が、信仰の歩みに必要なのです。
2.悪魔の誘惑は長所や賜物に働く
悪魔はイエス様の神の全能の力、奇蹟を行う力を間違った目的で使わせようと誘惑しました。悪魔は、人間の長所や賜物にも誘惑してきます。その人の能力を人のためではなく、自分のためや悪い目的に使わせようと誘惑します。悪魔に利用され、その手足となるのは、人の心の奥にひそむ思いや願いなのです。
しかし、悪魔の試みを受けたイエス様は、試みを受ける信仰者を必ず助けてくださいます。人間のどうしようもない弱さもご存知なのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
(ヘブル人への手紙2:18)
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル人への手紙4:15-16)
イエス様が神殿の頂から飛び降りて御使いが助けたら、多くの人はイエス様を神の子と信じるでしょう。
しかし、奇蹟やしるしに頼る信仰は本当の信仰ではありません。人々が驚くことをして注目を集めても長続きはしません。
神さまはいつも、普段の生活の中で、共にいてくださるのです。信仰に歩む者に対して、誘惑に打ち勝つ力、よみがえりのいのちによる新しい生き方へと進ませてくださいます。
それはただ、イエス・キリストの十字架の贖いのみわざによってのみ実現されたのです。